■節子への挽歌2082:「生きる」ということは「他者とともにある」ということ
節子
時々、おかしなことを考えます。
先ほど、ふと考えたのは、もし世界に私だけ残ったら、どんな感じだろうということです。
もし一人だけ生存した場合、それは生きているとはいえないのではないかというのが、少し考えて行きついた結論です。
一人では、生きている意味が全くありません。
人間は、言葉によって人間になったという人がいます。
聖書にも「はじめに言葉ありき」とあります。
一人になっても、独り言は言えるかもしれませんが、聞く相手がいなければ、言葉は意味を持たない。
それに、一人だと、自分が生きていることさえも確認できないでしょう。
「生きる」ということは、「他者とともにある」ということなのです。
まあ、そんなことはどうでもいいと思われるかもしれませんし、節子なら、また修の悪いくせが始まったと言うかもしれえません。
しかし、これはなにやら深い意味がありそうな気がします。
もう10年以上前のハリウッド映画に「ピースメーカー」という作品がありました。
ロシアの核兵器がテロリストにより奪われ、それを取り返す米軍人と原子力科学者の活躍を描いた作品です。
奪ったのは、ボスニアに介入した国連軍によって、妻と娘を殺害されたボスニアの外交官で、彼はニューヨークに核爆弾を持ち込むという話です。
タイトルの「ピースメーカー」は、核爆弾を取り戻した主人公たちのことですが、それだけではなく、ピースメーカーはまたビースを壊す人でもあることが含意されています。
外交官がなぜそうした行動に出たか。
妻と娘が国連軍の無差別攻撃で殺害されたからですが、ボスニアやチェチェンなどを題材にした映画に共通する、重い悲しさが、見た後もずっと残る映画です。
ジョージ・クルーニーとニコール・キッドマンが演ずる「ピースメーカー」よりも、ボスニアの外交官が国連平和維持軍を「ピースキーパー」(平和を気取る偽善者という意味合い)と告発するメッセージが心に残る映画です。
私はこの映画を1年ほど前にテレビで観たのですが、外交官が殺された妻と娘の前で号泣する場面が忘れられず、時々、思い出してしまうのです。
一人では、生きている意味が全くない、という思いは、そのシーンにも影響されています。
今日、書きたかったことは、実は、愛する者たちの死別において、生と死は同値だということです。
とすれば、ことさら「死」を嘆き悲しむことはないのです。
嘆き悲しむべきは、「別れ」であって、「死」でも「生き残ったこと」でもない。
舌足らずで、何を言っているのか伝わらないと思いますが、今日は、ふとそんなことを思ったのです。
東日本大震災の被災者遺族の報道を見るたびに、いつも思うのです。
残された人ほど辛く悲しいのに、なぜか罪悪感が拭えない。
そんな思いを、自分に重ねながら、いつも無意識に何か救いを求めている。
だからこんなことを、思ってしまったのでしょう。
まだやはり、克服できていない自分がいます。
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