■災害に備えて備蓄すべきものは何か
昨日、「作られたショック・ドクトリン」のなかで、「私は災害に対しては、ほぼ無防備な生き方をしてきています」と書いてしまいました。
それは事実なのですが、舌足らずでした。
舌足らずだけではなく、視野の狭さもありました。
その点は反省しました。
いつの間にか少し忘れていたようです。
読者の草庵さんから
『イザ』という時に、国や政治家や地方自治体は全く助けの役に立ちません。
その時に、佐藤様と佐藤様のご友人を守る為には、自助や互助がやはり重要になってくるかとも思います。
私もそのつもりで備えをしております。
自分のみならず、友人や近所の方を助ける為でもあります。
とコメントをいただきました。
「自分のみならず、友人や近所の方を助ける為」というところは、まったく同感です。
しかし、最近、私自身、その視点が薄れていました。
もちろん、そうしたことが起これば、わが家の在庫はすべて提供することになるでしょう。
それも踏まえて、舌足らずの点を少し書こうと思います。
私が目指している社会は「無防備でも快適に暮らせる社会」です。
だから、少なくとも自分自身はできるだけ無防備な生き方を実践しようと思っているのです。
それで昨日のような表現になってしまいました。
ところで、家庭用備蓄を否定しましたが、非常時用に備蓄するまでもなく、普段からそうした生き方をしています。
一方で、コンビニがわが家の備蓄場所などというような考えを呼びかけているマスコミや経済界が、ことさらに家庭用備蓄は1週間などと、しゃあしゃあと言うのが許せないのです。
あるいは、そういう生活をしている人が、私には不安なのです。
わが家は基本的に1週間ほどは買い物をせずとも生活できる体制はいつも出来ています。
それは昔からの生き方だったはずです。
そういう生き方を壊してきたのは、企業行や経済界、政府やマスコミ、評論家や生活アドバイザーたちだったのではないでしょうか。
私は、そういう生き方には違和感があります。
隣の人がお醤油がないと言ってくれば、お裾分け可能な生き方をしています。
そういう近隣との付き合いを目指していますので、いつでも歓迎です。
水道や電気が止まったらどうするか。
電気は1週間くらいはどうとでもなりますが(ロウソクや電池は常備されています)、水はかなり困るかもしれませんが、飲料用はどうにかなります。
それくらいの自然知識は私たちの世代にはあるでしょう。
ペットボトルの水を飲む文化は、私にはありませんので、自然界から水をもらうようにします。
問題は水洗トイレとお風呂です。
しかし、これも解決策はいくらでもあります。
長々書きましたが、要は生き方の問題なのです・
大震災を予定しての家庭ごとの過剰なストックは、消費至上社会を守るためのものであり、自分だけの生活を守ろうとする生き方につながり、むしろ好ましくないと思っています。
それよりも、近隣の人たちとの関係を育てておくことこそが、最大の備えになると思います。
備蓄すべきは、物質ではなく、支え合う人の関係です。
そのためには、日頃から挨拶し、日頃から何かできることをやっておくことです。
草庵さんがいうように、「友人や近所の方」、さらには「困っている方」への心遣いや支え合いが大切ですが、それはいざとなろうがなるまいが、いつでも大切なのです。
草庵さんは、そういう生き方をされているから、こういうコメントを下さったのでしょう。
その発想や関係性が育っていれば、いざとなっても乗り越えられるでしょう。
いざとなったら、トイレットペーパーを買い締めするような生き方こそ、見直さなければいけません。
大災害に備えて、備蓄よりも大事なものがあることを、むしろ広げていきたいものです。
それは「作られたショック・ドクトリン」とは正反対の、「作られた災害ユートピア」の発想です。
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