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2013/06/26

■節子への挽歌2120:「私はほんとうの私になっていく」

節子
昨日からのめまいはとまりましたが、まだ気分がすっきりしません。
少し頭痛も残っています。
大事をとって、今日の予定もすべてキャンセルさせてもらいました。
天気がよくなったら病院に行こうと思っていましたが、今日は雨でしたので、止めました。
あんまり論理的ではありませんが、気分は大事にしなければいけません。

時間があったので、だいぶ前から机に積んでいた「認知症のスピリチュアルケア」を読みました。
自らの認知症をカミングアウトした、オーストラリアのクリステイーン・ブライデンさんのケアパートナーのエリザベス・マッキンレーさんたちがまとめたスピリチュアルケアの本です。
そこに、クリステイーンさんの心の変化が紹介されていました。

認知症であることを告げられたクリステイーンさんは、自分が自分でなくなっていくことを一番不安に思っていましたが(彼女の最初の本の題名は「私は誰になっていくの?」)、次第に変わっていったそうです。
10年後の書かれた2冊目の本には、「私はほんとうの私になっていく」という表現がでてきます。
クリステイーンさんはこう書いています。

私は自分を理解する旅について何年間もふり返って考えてきました。今ではよりはっきりと,私は誰で,誰になっていき,死ぬとき誰になっていくのかがわかります。思い返せば,それは驚くべき自己発見,変化,成長の旅でした。私にとって認知症は,スピリチェアルな自己への旅でした。私は認知症とダンスを踊るようにつきあいながら,病気の変化に対応し,自分の欲求を表現し,しだいにゆっくりになっていく認知症のダンスの音楽に合わせる方法を学びました。
「スピリチュアルな自己への旅」。これは実に興味深いことです。

スピリチュアリティの捉え方はさまざまでしょうが、エリザベス・マッキンレーさんは、「スピリチュアリティとは,一人ひとりの存在の核となる部分に位置し,生きることに意味を与える,極めて重要な領域である。それは宗教を信仰することによってのみつくられるものではなく,もっと広い,たとえば神との関係性のようなものとして理解されるもの」と定義しています。
つまり、自らを取り巻く世界との関係性の中で見えてくる自分と言ってもいいでしょう。
魂を覆っている衣装を脱ぎ捨てた時に、それは見えてくる。
クリステイーンさんは、それに出会ったのかもしれません。

めまいと関係のない話を書いてしまいましたが、私にはどこかつながっているのです。
昨日は、目の焦点があわない不快さを体験していましたが、その時に見える風景はいつもと違います。
認知症というのも、見える日常の風景が変わってくるのかもしれません。
そして、その時に、もしかしたら「スピリチュアルな自己」が垣間見えるかも知れない。
たかだか1日程度のめまいでは無理でしょうが、節子は認知症ではなかったけれど、たぶん8月には「スピリチュアルな自己」が見えていたのだろうなとも思いました。
少なくとも、節子は「私はほんとうの私になっていく」ことを体験したはずです。
人は「ほんとうの自分」になって、彼岸に旅立つのではないか。
そんな気がして、なぜか少し安堵しました。

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