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2013/06/09

■節子への挽歌2107:「観自在」、「自らのあり方を観よ」

節子
奈良の薬師寺の僧侶たちが、東北の被災地での写経活動に取り組んでいます。
その活動をテレビで観ました。
被災者たちを前にして、何を語るべきか、それぞれが悩みながら、自らを問い質しながら、言動を深めている様子が感動的でした。
いろいろと考えることが多かったのですが、特に2つのも自我心に残りました。
「覚悟」と「観自在」です。
ずれも、「自ら」ということが含まれている言葉です。

説法師の大谷さんという僧侶が、写経の前に「観自在」の意味を話しました。
「観自在」、つまり「自らのあり方を観よ」。
写経行為は、自らと向き合うことだというわけです。

昨年から少しずつ広がりだしている、「魂の脱植民地化」という言葉(概念)があります。
私の目指す生き方につながっているので、以前から関心を持っていました。
概念そのものの内容は、決して目新しいものではありませんが、「魂の脱植民地化」と言われるとなにやら事の本質が暴かれるようで説得力があります。
それはそれとして、その概念を言い出した深尾葉子さんの本に、次のような文章があります。

自分が何を感じているのか、心の中が、どんなつくりになっているのか、自分の心の中を覗き込むことは、ひょっとすると他人の心の中を知るよりも難しいのかもしれない。(「「魂の脱植民地化とは何か」」。
昨日、テレビで大谷さんの話を聞いて、なぜかこの文章を思い出しました。
深尾さんの本を探し出し、その文章を探しました。
そのままにしておくと、どうも気分がすっきりしないのです。
しかし、本の中から文章を探すのは結構大変です。
気になりながら、今もって見つけられていない文章が2つあります。
一つは20年以上、探していますが。
幸いに今回はすぐ見つかりました。

深尾さんは、こうも書いていました。

自分自身が頭で考える「自己像」と、自分の身体反応がつくりあげる自己は必ずしも一致するものではなく、頭でつくりあげた「思い込み」が、身体に著しい負荷をかけたり、逆に身体は必ずしも思い通りに動くわけではない、という当たり前のことに直面する。自分の中で常に沸き起こる不調和のような感覚は、自分自身の魂と身体、心と体、あるいは身体のそれぞれの部位の乖離によるものではないかと感じ始めていた。それは、アイデンティティといったレベルの不一致ではなく、一種の特異な統合失調とでもいえる状態である。
最近の私の状況がとても納得できる気がしてきました。
同時に、まだまだ自らの見詰め方が不足しているとも思いました。
呪縛から自由でいるつもりでも、まだまだ私の魂は呪縛されているようです。
もっと自らの生き方や在り方を見詰め、魂を解き放ちたいと思います。

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