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2013/06/30

■節子への挽歌2123:愚者であることを引き受ける時期

節子
また挽歌が数日かけませんでした。
人生はいろいろとあるものです。
少しありすぎるような気もしますが、まあ仕方がありません。
この歳になってわかってきたことは、すべてが因縁の故であり、いわば因果応報ということです。
いま起こっていることは、因と縁の結果であり、それこそ仏教的に言えば、空なのですから、いま悩んでも仕方がありません。
ことはすでに遠い昔に始まっていますから、いまはただそれを素直に受け入れ、引き受けなければいけません。
一見、因が思いつかないこともあります。
成り行き上、いつの間にか関わってしまった問題もあります。
しかし、その成り行きこそが、因であり縁なのでしょう。
最近はそう思えるようになりました。

しかし、それにしても、自分のことは見えていなかったものです。
もう少し自分はまともな存在だろうと思っていましたが、情けないほどに過ちが多いのです。

時評編で、数日前に愚者としての科学者オッペンハイマーの話を紹介しましたが、私自身、オッペンハイマーに引けを取らないほどの愚者であることを最近は毎日のように実感させられます。
有名人よりは、少しはましではないかという思いが以前は強かったのですが、必ずしもそうではないようです。

愚者は、必ずしも悪いわけではありません。
愚者でなければできないことも多いからです。
愚者であることは、人間の証かもしれません。
しかし、オッペンハイマーがそうであったように、ある時期に、愚者としての行為の結果が自分にも見えてくるようになります。
原爆の父と言われるオッペンハイマーは、広島と長崎の惨状を見て、自らがいかに愚かだったかを思い知らされます。
自らを愚かだと知ることで、人はようやく愚者であることをやめられます。
そして、その後は、愚者だったことの償いをすることになるわけです。
しかし、多くの人は、オッペンハイマーと違って、その後も、もうひとつの愚者の世界に入りかねません。
せめてそうならないように、心がけようと思います。

愚者であった償いを受けるのは、それなりに辛いことです。
最近、いささか疲れてきていますが、それに耐えなければいけません。
なかなか伝わりにくいと思いますが、一人で引き受けるにはいささか荷が重いです。
できるならば、愚者であることを続けたいものです。

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