■節子への挽歌2118:生きているものとの付き合いは疲れます
節子
わが家の畑から、収穫がありました。
ナスときゅうりとピーマンとトマトです。
もっとも最近は梅雨のため、あまり畑に行かなかったため、周辺の草が生い茂り、ナスもトマトもひどい状況になっています。
畑を維持するのは、やはり大変です。
なにしろ、野菜はもちろんですが、畑そのものが生きているからです。
生きているものと付き合いのは、手を抜くとすぐに跳ね返ってきます。
生きるということは、いうまでもなく、無数の生命と付き合うことです。
わずかとはいえ、野菜を育てているとそれが実感できます。
私たちの社会がおかしくなっているのは、やはりいのちある多くのものとの関係をおろそかにしているからかもしれません。
さて、今の節子は「いのちあるもの」でしょうか。
節子とのつながりを、最近、いささか手を抜いているためか、先日の法要で真言を唱えるところで間違ってしまいました。
隣で聞いていた娘から指摘されてしまいました。
困ったものです。
手を抜くとそのとがを受ける。
やはり節子は「生きているもの」なのかもしれません。
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