« ■節子への挽歌2117:8年ぶりの三浦さん | トップページ | ■節子への挽歌2118:生きているものとの付き合いは疲れます »

2013/06/25

■責任を取る社会から責任を押し付ける社会へ

全柔連の上村会長の記者会見を聞いていて、当事者主権という言葉を思い出しました。
福祉の世界で使われだした、当事者が主役になるという考えです。
私にはとても共感できる考えですが、しかしそこには大きな落し穴があるのではないかと、ちょっと思ったのです。

それは、当事者をどう捉えるかということです。
言い換えれば、問題をどう設定するかということです。
途中で投げ出すのは無責任だから、問題を解決してから辞任すると上村会長は言っています。
要するに、当事者として最後まで自分でやるということでしょうか。
私には、「当事者」の捉え方が違っているように感じました。
彼にとっては、自分の問題なのであって、みんなの問題ではないようです。
もしかしたら、福祉の世界の「当事者主権」にも、そうした落し穴がないかと、ふと気になったのです。

窃盗事件の当事者は、犯人でしょうか、被害者でしょうか、あるいはそれを取り締まる警察でしょうか、さらにはそれによって生活の平安を脅かされる社会でしょうか。
当事者をどう規定するかで、対応も解決策も全く違ったものになります。
上村会長が考えている「問題解決」とは、いうまでもなく自らにとって都合のいい解決です。
上村会長は、辞任して別の人に解決を委ねれば、おそらく自らの都合の良いようには事は進まないと感じているでしょう。
自分が加害者である意識が皆無のように感じます。
最近の相撲や野球で発生した不祥事の時のトップの対応と同じです。
スポーツ界だけではありません。
これは最近よく見る風景です。
原発事故を起こした(「事故が起きた」のではありません)東電の対応もそうでした。
被害者としての当事者意識さえ感じたほどでした。

そこで発生するお金の流れを見ると、そうしたことはさらによく見えてきます。
全柔連のトップたちが不正使用したお金は政府に返済するそうですが、ソーシャル・キャピタルの返済金は自分たちで負担するようにはなっていないようです。
それは東電が原発事故による被災者に払う賠償金を電気料金で賄うのと同じです。

それにしても、どこもかしこも、おかしくなってしまったのはなぜでしょうか。
ちなみに、第三者委員会なるものがよく登場しますが、これもわけのわからない仕組みです。
ともかく、誰も責任を取らない時代になってきました。
自己責任ブームが示したように、責任を取る社会から責任を押し付ける社会へと変わってしまったのでしょうか。
せめて自分で取れる責任はきちんと取りたいともいます。

上村会長の話を見ながら、自分の生き方を改めて問い質しました。

|

« ■節子への挽歌2117:8年ぶりの三浦さん | トップページ | ■節子への挽歌2118:生きているものとの付き合いは疲れます »

生き方の話」カテゴリの記事

社会時評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/57661766

この記事へのトラックバック一覧です: ■責任を取る社会から責任を押し付ける社会へ:

« ■節子への挽歌2117:8年ぶりの三浦さん | トップページ | ■節子への挽歌2118:生きているものとの付き合いは疲れます »