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2013年7月

2013/07/31

■節子への挽歌2145:ホイヘンスの発見

節子
2つの振り子を近接して置いておくと、いつのまにかその触れ方が同じになってしまうのだそうです。
今から350年も前に、そのことに気づいたのはオランダの科学者クリスチャン・ホイヘンスです。
彼はこの現象を「同調化」と呼びました。
実は時計の振り子だけではなく、同じような現象はいろいろあります。
私がこのことを知ったのは、光ファイバーのことを調べていた時です。
光にも同じような現象が起こるのです。

さらに生命体にも「同調化」は起こります。
医療の世界では、この原理をつかった療法も広がっています。
人の心身も、自然と同調化するようにできているのです。

夫婦や家族は、多くの場合、隣り合って生きていますので、当然のことながら同調しやすでしょう。
夫婦は似てくると言われるのは、その証です。

ホイヘンスの発見によれば、同調した振り子の振れ具合は、いずれかの振り子に合わせるのではなく、相互が歩み寄って新しい振りを創りだすのだそうです。
まあこのあたりの記述は、私もきちんと調べて書いているのではないので、不正確かもしれません。
しかし、どちらかに合わせるのではなく、一緒になって新しいリズムを創りだすことで、とても安定したリズムになるというようなことを、何かで読んだ気がします。
節子と私の関係を考えれば、これは実にうなづける話です。

私たち夫婦のライフスタイルは、当初はかなり違っていました。
家族や夫婦に関して、かくあるべしという理想をもっていた私は、最初はその理想を節子に働きかけたと思います。
しかし、幸か不幸か、節子はそれを器用にこなす賢妻でもなければ、それを無視する悪妻でもありませんでした。
まあ要するに、私の理想を深く理解しない愚妻だったわけです。
節子に失礼ではないかと思われるかもしれませんが、私にとって「愚か」ということは必ずしも否定的な意味ではないことを、節子は知ってくれていますので、いいでしょう。
そもそも、自分の理想を他者に押し付けられると思うことも、明らかに愚者の発想です。
私たちは、愚妻愚夫の夫婦だったわけです。
そしてその関係の中から、新しい私たちスタイルが生まれてきたのです。
まるでホイヘンスの家の振り子時計のように、気がついたら、同調していたわけです。

隣にあった振り子時計が外されてしまったら、残された時計はどうなるか。
ホイヘンスは、その実験はしたのでしょうか。
もっとも、その実験結果は知りたくはありません。
なぜなら、「止まる」のを待つだけの話だからです。

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■気がついたら蓋の中

相変わらず福島第一原発では、放射能汚染水が海へ漏出しています。
業を煮やした規制委員会は自らが作業部会をつくり、対策の検討に乗り出すことになったと報道されています。
新聞記事にはこうあります。

規制委は、東電が海への漏出を認める前から、福島第一原発の坑道にたまった汚染水が土壌にしみだして海に漏れ出ている可能性を指摘。東電に速やかに対策をとるよう指示していた。

規制委員会が動き出したのは歓迎すべきです。
でも遅すぎないでしょうか。
坑道の汚染水が海に漏れ出ている可能性は、別に規制委員会でなくともわかります。
それを、東電に速やかに対策をとれというだけでいいのか。
そこに大きな疑問を感じます。

これは原発事故対応だけの話ではありません。
全柔連の騒動も、同じ疑問を感じます。
昨日の結論は、誰が考えてもおかしいと思いますが、終わった後でみんな批判します。
きちんとした形で次に譲りたいと上村会長は辞職時期の引き延ばしの理由をいつも述べますが、要するに自分の都合のいいようにすることが「きちんとした形」であることは明白です。
しかし、多くの人はそれを批判はしても結局は受け入れます。

なぜでしょうか。
それは、その問題にはコミットしたくないからではないかと思います。
福島原発事故の真相があいまいにされているのも、いまの汚染実態があきらかにされないのも、それに取り組むと排除されるからではないかと思いたくなります。
テレビのキャスターたちがしっかりと突っ込んでいかないのも、同じかもしれません。
知ってしまうと動かなければいけないからです。
だから遠巻きにはいろいろというのですが、決して事実を知ろうとはしない。
知ってしまったことも、決して口外せずに、知らなかったことにする。
おそらくこうした状況が広がっているのではないかと思います。

亡くなった吉田所長のメッセージを青山繁晴さんがテレビで紹介した番組の書き起こしを読んで、改めてそう思いました。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1409.html
しかし、大切なことは「事実を知ること」です。
そして、「知った事実を伝えること」です。
臭いものに蓋をしていたら、いつか社会全体に蓋をしなければいけなくなってしまいます。
気がついたら蓋の中、などということにならなければいいのですが。

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2013/07/30

■日本の協同組合の現状への嘆き

社会保障問題に誠実に取り組んでいる青山学院大学の本間教授と電話で話しました。
先日お会いした時に、全共連と東京海上日動の業務連携の話に大きな危機感をお持ちだったので、それをテーマにした話し合いの開催を頼んだら、断られてしまったことが気になっていたのです。
その時に、本間さんの無力感が伝わってきたからです。
この問題は、日本の協同組合の危機だと本間さんは考えています。
だからこそ話し合う場をつくりたかったのですが、その時には本間さんは孤軍奮闘につかれきっていたのでしょう。
協同組合や共済の分野から、だれも異論を発しないというのが本間さんの怒りです。
怒りとい言うよりも、疲労感と無力感と言ったほうがいいかもしれません。
それが痛いほど伝わってくるので、ずっと気になっていました。
本間さんがあまりに嘆くので、日本の協同組合や共済事業体はもう滅んでしまったのではないですかとついつい言ってしまいました。
私には正直そう思えるからです。
大きな協同組合は、今やみんなお金の亡者に成り下がっているようにしか、私には思えません。
しかしこの発言には、さすがに本間さんは私を叱りつけました。
それはそうでしょう。叱られて当然です。
そう思うことこそが、最大の落し穴なのですから。
終わったといっても、まだまだ社会的な影響力はあるのです。

本間さんは怒っているだけではありません。
数年前に自らが中心になって「共済研究会」を立ち上げました。
それはかなりの役割を果たしたと思います。
このブログでも何回か書きましたが、私も一時期参加しました。
しかも、大きな期待を持って参加したのです。

しかし、2年ほど前に、本間さんからの強い慰留にも関わらず退会してしまいました。
本間さんには共感したものの、そこで議論していても何も変わらないと思ったからです。
組織は、状況に合わせて、自己変革していくべきですが、組織はできた途端に組織維持が目的になりますから、運動という意味では、制約にさえなりかねません。
電話では、そんな話さえしましたが、本間さんの行動方針と私のそれとはなかなかかみ合いません。
私は、共済研究会とは別の、本間さんの理念に基づく運動体を立ち上げて欲しいと思っています。
2年ほど前から本間さんにはお願いもしています。
しかしなかなか本間さんとは意見がかみ合いません。

そんなわけで、今度新たに「支え合い共創ネット(仮称)」を立ち上げることにしました。
本間さんにとっては、物足りない活動でしょう。
でも快く参加してくれました。
そのネットワークの集まりでも、本間さんの思いを込めた危機感を披露してもらう集まりを持つ予定です。
またここでもご案内しますが、支え合い共創ネットのメーリングリストもつくりますので、参加ご希望の方は登録アドレスを私に送ってください。
登録させてもらいます。

腐った協同組合はなくなってもいいですが、協同組合の原点に戻って、改めて生活の観点からの協同組合をルネサンスする動きには少しでも荷担したいです。

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■節子への挽歌2144:人生の一部

「北京のふたり」という映画があります。
リチャード・ギア主演のかなり前の映画ですが、最近、テレビで放映されていました。
番組表でしか見ていないので、記憶違いかもしれませんが、最後のシーンが印象的だったので覚えています。

ストーリーは、殺人容疑をかけられた無実のアメリカ人を中国の女性弁護士が救う話です。
最初、弁護士は被告の無実を信じていなかったのですが、いろいろとあって、被告も弁護士も、その生き方を変えていくのです。
結局は無実が証明されるのですが、その過程で2人は深く愛し合うようになります。
主人公は一緒にアメリカに行こうと女性弁護士を誘います。
弁護士は、まだ国のためにやるべきことがあると、その申し出を断るのですが、主人公は、何もなかったようにこれから生きていくのかと問います。
それに対して、彼女は、たしかこんなことを言うのです。

そうではない、私は変わった。
あなたと一緒に裁判に立ち向かうことで、私の生き方は変わった。
あなたが、私の人生を変えたのだ。
だから、これからはもう、あなたは私の人生の一部だ。
地球の裏側に、自分の家族がいることを忘れないでほしい。

かなり不正確かもしれません。
なにしろ映画を見たのは10年以上前ですので。
表現はかなり違うかもしれませんが、あなたは私の人生の一部になったというところは、たぶん間違いないはずです。

私は、節子と暮らしを共にすることで、間違いなく人生を大きく変えました。
それは誰と暮らしても一緒だろうと思いますが、私には大きな意味がある変わり方でした。
節子は、私を変えようとはしなかったからです。
不遜ながら、私は節子を変えようとしました。
結果はどうだったか。
私は変わり、節子は変わらなかった、ということです。
このことが、私にはとても大きな気づきをもたらしてくれました。

だから、節子が私の人生の一部になってしまったことは間違いなく実感できるのです。
先日、リビングで本を読んでいた時、節子が部屋に入ってくるような気がしました。
今も節子の気配を、いろんなところで感じます。
節子が此岸にいないことは、わかっています。
でも時々、そこに節子を感ずる。
節子が人生の一部になっているからでしょう。

北京の2人は、地球の裏表ですが、私たちは彼岸と此岸です。
どちらが遠いのか、それは考え方次第です。

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2013/07/29

■節子への挽歌2143:経験したことのない大雨

節子
雨です。
今日は湯島に来ていますが、家を出る直前ににわかに空が真っ黒になり、大粒の前が降ってきました。
最近増えているシャワーのような短時間の雨ですが、それが各地に被害を与えています。
気象庁は「経験したことのない大雨」と警告していました。

わが家は傾斜地の造成地の上に建っています。
ですから、こうした大雨に襲われたら、どうなるかわかりません。
事実、そうした被害を受けているところがテレビで時々映されます。
とんでもないところが水流で大きく崩され、土砂に埋まってしまう状況をテレビで見ることは最近は少なくありません。
いつわが家に起こっても不思議ではないのですが、自分の身に実際に起きないとなかなか自分の問題とは思えないものです。
だから「想定」もしないのです。

経験したことのないことを経験するのは、ある意味で善悪を超えています。
何しろ経験したことがないので、評価できないからです。
しかし多くの場合、それはできれば「経験したくないこと」であることが多いでしょう。
大雨の場合はそうしたものの一つです。
だから「経験したことのない」とは「経験したくない」と同義語であることが多いでしょう。その警告を耳にしたら、多くの人は避けたいと本能的に思うでしょう。
その意味では、効果のある表現です。

伴侶との死別も、多くの場合は「経験したことのないこと」です。
私の場合もそうでした。
だからどう対処していいかわかりません。
いや「理解できない」のです。
そのことに比べれば、たとえどんな大雨であろうと「経験」の延長で考えられます。
原発事故の時も、当事者たちは盛んに「想定外」という言葉を使っていました。
しかし、原発事故に関して言えば、想定外などという言葉は誠実ではありません。
想定したくなかっただけなのです。
自然災害もそうかもしれません。

伴侶の死はどうでしょうか。
たしかに「経験したことがないこと」ですが、「想定外」ではありえません。
想定しなかったのは、要するに、想定したくなかったからです。
経験したことのない大雨も伴侶との死別も、要するに経験したくないことなのです。
しかし、両者はまったく違います。
前者は経験せずにすませることもありますが、後者は避けられないことです。
後者を経験せずにすませることはできないものでしょうか。
それをもっと早く考えていくべきでした。

経験したことのないほどの大雨の被害も大きいですが、経験したことのない伴侶の死も、なかなか立ち直れないほどに大きいものです。

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2013/07/28

■節子への挽歌2142:供花

節子
最近、暑いこともあって、お墓参りをさぼっていましたが、今日は久しぶりに行ってきました。
夏の間は、生花はすぐに枯れて腐ってしまうので、造花にしています。
今年の造花は、娘たちが時間をかけて選んできた組み合わせです。
素材は100円ショップのものなので、材料費は1000円にも届きませんが、まあかなり思いを込めて、みんなで選んだ花の組み合わせなので、節子も気にいってくれるでしょう。
節子も、こういうことが好きでしたが、うれしいことに娘たちも、まけずに好きなのです。

わが家の位牌に具える花も、夏はなかなか長持ちしません。
いろんな方からお花代をもらったので、以前は供花基金として別勘定にしていたのですが、ついつい私が使い込んでしまい、最近は独立基金がなくなってしまいました。
それで、わが家や畑の花を供えることもあるのですが、この季節は、供花になるような花がなかなか育ちません。

わが家は、基本的に「仏花」を好みません。
節子もそうでした。
葬儀の時にも、仏花をやめて、バラとユリにしたかったのですが、実現できなかったことは前にも書きました。
いまは法要の時は、できるだけ仏花らしくないものにしています。

節子の実家もそうでしたが、農家には必ず仏壇用の花畑があります。
仏壇に花を供えることを通して、生活にも花が取り入れられてきたわけです。
祖先を祀る事は、実は花とふれあい、自然を祀ることでもあったのです。
このことに気づかされたのは、節子と結婚し、節子の実家で過ごすことを通してです。
花を供えるという行為は、生活に大きな影響を与え、人の心にも大きな影響を与えてきたように思います。

しかし、その習慣や文化は、40年ほど前からなくなりだしました。
それが、最近の社会の姿に大きな影響を与えているような気がします。
花のある生活は、社会のあり方を変えていくはずです。

最近、暑いこともあってすぐ枯れてしまうので、仏壇の花も小さなものになってしまいがちでしたが、やはり供花はきちんとしなければいけないと思いなおしました。
仏壇に供えられるような花も、畑で作り出そうと思います。
節子に供える花は、実は遺されたものにこそ、供えられているのですから。

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2013/07/27

■節子への挽歌2141:変わったようで変わらない生き方

節子
昨日のオープンサロンは、節子もよく知っている人たちが集まりました。
最近の政治状況の話から、社会のあり方や私たちの生き方へと話題が広がりました。
みんな私の生き方を知っている人たちですので、話は具体的になります。

サロンの最初に来たのは、一番古い付き合いの武田さんですが、私の顔を見た途端、疲れてますね、と心配してくれました。
たしかにこの数日、寝不足もあって、目があかないほどに疲れています。
武田さんは、重ねて、奥さんがいなくなって、佐藤さんはもう死んだようなものだよね、といつものように憎まれ口です。
まあしかし、いずれも事実だから仕方ありません。
たしかに節子がいなくなってから、私の生き方は、ある意味では「死んだような生き方」になっているかもしれません。
それに、節子がいた頃と違って、疲れを蓄積してしまう生き方にもなっていることは否定できません。
「死んだような生き方」と「疲れの蓄積」は、つながっています。
「生きていれば」、疲れはどこかで解消されるからです。

いずれにしろ、私の生き方は、大きく変わったはずです。
にもかかわらず、私の生き方における考え方は、節子がいた時と変わっていません。
私の生き方の話を聞いた大島さんが、20年前から聞いていますよ、と言ってくれたのは、その証になるでしょう。
いうまでもなく、武田さんは、私の生き方を、相変わらず馬鹿だなといつも言いますし。
ということは、私の生き方は、変わっていないのです。

変わったようで変わらない生き方。
私の生き方の何が変わり、何が変わっていないのか。
少し考えてみたいと思います。

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2013/07/26

■面倒くさいことが多すぎます

挽歌編に書いた記事ですが、生き方編にも残したくなりました。
ほとんど同じ内容です。

今日も暑いです。
妻がいなくなってから(出て行ったのではなく亡くなったのです)、やらなければいけない仕事がいくつか増えました。
その一つが、銀行通いです。
通帳の印鑑がわからなくなったり、通帳がいっぱいになったり、残高が不足したり、振込やらいろいろあります。
カードのパスワードを間違えて、再発行してもらいにも行きました。
しかし、銀行は面倒です

今日は、新しい銀行口座を開設に行きました。
私の口座ではなく、私が関わっている会社の口座をもう一つ開くことにしたのです。
前にも一度行ったのですが、書類が不足していました。
実に面倒です。
ただし、銀行の人たちはみんな働き者で、親切です。

面倒なのは銀行だけではありません。
生活のためにはさまざまな手続きが必要ですが、それらがすべて面倒です。
どうしてこんなに面倒な仕組みを作ってしまったのでしょうか。
しかし、そうした面倒な仕組みをみんな受け入れているのも不思議です。
私のように、老人性痴呆が進行しだしたものには、手続きのための書類を読んでもよくわかりません。

書類だけではありません。
昨日は、ネット接続の料金が安くなりますよと電話がありました。
説明を聞いてもわからないので、それでいったいいくら安くなるのですかと質問したら、毎月5500円くらいになりますと言われました。
質問の答えにはなっていません。
今はいくら払っているのでしょうか。
それもわからないので、判断ができません。

私は、以前はクレジットカードの仕組みが理解できませんでした。
それで長く使用しなかったのですが、一度、使ってみたらとても便利です。
一番気にいったのは、お金を持ち歩かないですべてお金なしでいいのです。
お金を落とす心配も、お金を忘れる心配もありません。
第一、お金などなくても不便をしないのですから、私の目指す生き方に重なります。
それで気にいって、一時は加入のお誘いがあるとみんな入ってしまいました。
その結果、今は自分が何を払っているかさえわかりません。
整理したいのですが、それもまた面倒くさい。

以前であれば、妻に、「やっておいてくれない」の一言で済んでいました。
そのころ、妻がこんなに苦労しているとは思いませんでした。
でもまあ、私の妻でさえやりこなせていたのですから、世の中の人はみんなうまくやっているのでしょう。
尊敬します。
それにしても、自分のだめさ加減がいやになります。
すべてカード決済にして、支払いは政府がしてくれるようにならないものでしょうか。

たぶん今もそうしている人はいるのでしょうね。
そういう人になりたかったです。
宮沢賢治の「雨にも負けず」に出てくる、おろおろ生きる人もいいですが、そういう人もいい。
銀行で待たされている間に、そう思いました。
銀行は涼しくていいです。
我が家よりずっと涼しい。なぜでしょうか。

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■節子への挽歌2140:面倒くさいことが多すぎます

節子
今日も暑いです。
節子がいなくなってから、やらなければいけない仕事がいくつか増えました。
その一つが、銀行通いです。
通帳の印鑑がわからなくなったり、通帳がいっぱいになったり、残高が不足したり、振込やらいろいろあります。
カードのパスワードを間違えて、再発行してもらいにも行きました。
しかし、銀行は面倒です

今日は、新しい銀行口座を開設に行きました。
私の口座ではなく、私が関わっている会社の口座をもう一つ開くことにしたのです。
前にも一度行ったのですが、書類が不足していました。
実に面倒です。
ただし、銀行の人たちはみんな働き者で、親切です。

面倒なのは銀行だけではありません。
生活のためにはさまざまな手続きが必要ですが、それらがすべて面倒です。
どうしてこんなに面倒な仕組みを作ってしまったのでしょうか。
しかし、そうした面倒な仕組みをみんな受け入れているのも不思議です。
私のように、老人性痴呆が進行しだしたものには、手続きのための資料を読んでもよくわかりません。

資料だけではありません。
昨日は、ネット接続の料金が安くなりますよと電話がありました。
説明を聞いてもわからないので、それでいったいいくら安くなるのですかと質問したら、毎月5500円くらいになりますと言われました。
質問の答えにはなっていません。
今はいくら払っているのでしょうか。
それもわからないので、判断ができません。

私は、以前はクレジットカードの仕組みが理解できませんでした。
それで長く使用しなかったのですが、一度、使ってみたらとても便利です。
一番気に入ったのは、お金を持ち歩かないですべてお金なしでいいのです。
お金を落とす心配も、お金を忘れる心配もありません。
第一、お金などなくても不便をしないのですから、私の目指す生き方に重なります。
それで気にいって、一時は加入のお誘いがあるとみんな入ってしまいました。
その結果、今は自分が何を払っているかさえわかりません。
整理したいのですが、それもまた面倒くさい。

以前であれば、「節子、やっておいてくれない」の一言で済んでいました。
そのころ、節子がこんなに苦労しているとは思いませんでした。
でもまあ、節子でさえやりこなせていたのですから、世の中の人はみんなうまくやっているのでしょう。
尊敬します。
それにしても、自分のだめさ加減にいやになります。
すべてカード決済にして、支払いは政府がしてくれるようにならないものでしょうか。

たぶん今もそうしている人はいるのでしょうね。
そういう人になりたかったです。
宮沢賢治の「雨にも負けず」に出てくる、おろおろ生きる人もいいですが、そういう人もいい。
銀行で待たされている間に、そう思いました。
銀行は涼しくていいです。
我が家よりずっと涼しい。なぜでしょうか。

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■善意の人を追いやる闇

山口県周南市の集落で5遺体が見つかった連続殺人放火事件は、最初は猟奇事件のような印象がありましたが、状況が分かるにつれて、現代の社会を象徴するような悲しい事件に見えてきました。
63歳の犯人のイメージも大きく変わりました。
そういう視点で、集落の住民たちの発言を聞いていると、最初の印象とは全く違うような気がしてきます。
犯人を、そこまでの行為に駆り立てたのはなんだったのでしょうか。
そこに深い闇を感じますが、その闇はいまや社会を覆いだしているような気がします。
その闇は、「善意の人を追いやる闇」です。

人はみな、善意なのだと、私は思います。
しかし、善意を貫いて生きていくのは難しいと思いがちです。
なぜなら、善意は多くの場合、裏切られるからです。
裏切られても、善意を貫いて生きることは難しい。
どこかで「折れて」しまいがちです。
いや、折れる前に、自らで自らの善意を押さえ込んでしまうことも少なくないでしょう。
それが生きるために必要だと思いこまされているからです。
でもそんなことはありません。
やってみなければわからない。

それに、善意がすべて良いわけでもありません。
「地獄への道は善意の絨毯で敷き詰められている」という言葉もあります。
善意には実は「魔性」も同居しているのです。
魔性を押さえ込む「大きな善意」は、だれもが兼ね備えているわけではありません。
その魔性を呼び起こし、その魔性が善意を手玉にとってしまうのが「社会の闇」です。
善意が集まっても、必ずしも善意が広がるとは限りません。

周南市の事件は、そうしたことを考えさせられます。
被害にあった人の立場で考えることも大切ですが、むしろ今、私たちに欠けているのは、加害者に追いやられた人の立場で考えることではないかと思います。
加害者と被害者は、紙一重です。
加害者への善意も、忘れてはならないように思います。
そして、加害者の立場をちょっとだけでも理解しようとすれば、世界は違って見えてくることもあります。
これが、最近、私が心がけていることです。

弱い人いじめは、私の一番避けたいことですが、ネットの世界ではそれが広まっています。
しかし、弱いものいじめをする人こそ、実は追い詰められているのかもしれません。
社会の闇からネットを守りたいものです。

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2013/07/25

■節子への挽歌2139:最期を看取るから

先日、テレビで映画「ワイアット・アープ」を放映していました。
ワイアット・アープといえば、実在した保安官で、西部劇のスターの一人です。
特に有名なのが、「OK牧場の決闘」ですが、学生の頃、この映画が好きで、ある一場面だけを見るために何回も映画館に通いました。
当時の西部劇は、実に単純で、わかりやすかったのですが、節子はその頃の西部劇も好きではありませんでした。
人を殺す映画はいや、というのが、その理由でした。

「ワイアット・アープ」はケビン・コスナー主演で、全体に暗い映画で、私は一度見たら十分だと思っていましたが、なんとなく懐かしくて見てしまいました。
西部劇の好きな人はすぐに気づきますが、この映画は「OK牧場の決闘」を少しだけ取り込んでいます。
そういう視点で見るとおもしろいのですが、映画そのものは、全く面白くありません。

それはともかく、一か所だけ、心に響く言葉がありました。
ワイアットが求婚される場面です。
私は求婚したことはありますが、求婚されたことがありません。
しかし、この言葉で求婚されたら、すぐに受けてしまうだろうなと思いました。
その言葉は、「私があなたの最期を看取るから」というものです。
この言葉は、すごく大きな力を持っています。
最高の贈り物は、「最期を看取る」ことだと、最近、ようやくわかってきました。
私は、その最高の贈り物を節子にあげたわけです。
私の看病や心遣いは、不十分だったかもしれません。
最近、そう思えてならないのですが、しかしまあ、「最期を看取る」という最高の贈り物をしたのだから、節子は許してくれるでしょう。

愛する妻を病気で亡くしたワイアットは、もう2度と結婚しまいと思っていたのですが、この言葉で再婚してしまうのです。
そして、最期を看取られて、人生を終わるのです。

ところで、この言葉で再婚することには、問題があります。
それは、最期を看取られるのではなく、また「最期を看取る」羽目になるかもしれないということです
それを思うと、この言葉には要注意です。
ワイアットはうまくいきましたが、だれもがうまくいくわけではありません。
だまされてはいけません。
まあ、だます人はいないでしょうが。

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■節子への挽歌2138:時機純熟の真教

節子
節子の生家は浄土真宗でした。
法事の時に、よく親鸞の話が出てきました。

親鸞は、浄土真宗は「時機純熟の真教」だと言っているそうです。
然るべき時が来たら、世界が見えてくるということでしょうか。
私の解釈では、彼岸も含めて、古今東西の世界が見えてくるということです。
大きな生命が見えているといってもいいかもしれません。
まあこれは、勝手な私の解釈です。

親鸞はまた、迷いの中に真実を見る人だったようです。
空海とは違います。
空海が彼岸の人なら、親鸞は此岸の人です。
節子の生家は、滋賀県の高月町というところですが、この周辺には、親鸞と空海の振興が篤いようです。

節子がいなくなって6年近くになりますが、最近、彼岸が少し見えてくるような気がしています。
見える、と言うよりも、感ずると言ったほうが適切かもしれません。

如来とは、「如」が「来る」、つまり、本来の真実の姿(如)に「帰る」ということでもあるそうです。
信仰を重ね、時が来れば、如来となる。
実に納得できる話です。
素直な心で考えると、仏教の説話や教えにはうなづくことが多いのです。

毎朝、時には省略版ですが、大日如来を拝みながら、般若心経をあげています。
そのおかげかもしれません。
最近、なにか世界のすべてを感じられるような気がすることがあるのです。
世界が見えると、少し安堵します。
祈りは心を和ませます。

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■節子への挽歌2138:死の疑似体験ワークショップ

節子
本で知ったのですが、死の疑似体験ワークショップというのがあります。
死生学を専門にされている関西学院大学の藤井美和教授がやっているそうです。
そのワークショップの一つに、自分にとって一番大切なものは何かを考えていくプログラムがあります。

進め方はこうです。
まず、参加者に、「形のある大切なもの」「大切な活動」「大切な人」「形のない大切なもの」の4つの領域から自分にとっての大切なものを3つずつ選んで、12枚の紙に書いてもらうことから始めます。
そして、若くしてがんで亡くなった学生の手記を読みながら、あるステージごとに、その学生の立場になって、何をあきらめるのかを決めて、その紙を捨てていくのだそうです。
入院した時に3枚、手術する時に3枚、病気ががんであるとわかった時、にまた3枚と捨てていくわけです。
多くの場合、まず、形あるものから消えていくそうです。
最後に残るのは、形のないもの、たとえば「愛」です。

最初、このワークショップのことを知った時には、正直、違和感がありました。
「死の疑似体験」という表現にも抵抗がありました。
理由は自分でもよくわかりませんが、ともかく違和感がありました。
死とは、何か「大切なもの」を捨てなければいけないものなのかというのも、私のイメージとは違います。
それに、そんなプロセスを通さなくても、私には最後に残るものは明白だからです。

節子はどうだったでしょうか。
節子ではないので確実とはいえませんが、そもそも「選択」などはしなかったと思います。
すべてが大切だった。
節子にとっては、節子が生きてきた人生すべてが、同じように大切だったでしょう。
死を前にしたら、おそらくすべてのものの価値は同じくなるのではないかと思います。
いや、別に死を前にしなくも、人にとって大切なのはひとつには絞り込めません。
にもかかわらず、私たちは「何か」に執着し呪縛されます。
それが金銭のこともあれば世間からの評判のこともあれば、愛する特定の人であることもあります。
藤井さんのワークショップは、そのことに気づかせてくれるかもしれません。
その意味では、大きな意味があります。
私には違和感はありますが、そのワークショップ自体の効用はよくわかります。

節子の最後の1か月は、厳しいものでした。
ですから節子とゆっくりと話すこともできませんでした。
この厳しさを乗り越えたら、また話せるという思いが私にはありました。
節子も私も、娘たちも、一生懸命に生きました。
何が大切かなどは考えることなく、ただただ節子が元気になることがみんなの唯一の思いでした。
そんな体験があるので、このワークショップに違和感があるのです。

また、あの悪夢のような暑い夏がやってきます。
私にとって、一番大切なものは、節子との暮らしです。
それを守れなかったことの無念さは、この時期、特に大きくなってきます。
暑さがこたえます。

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2013/07/24

■決められる政治の意味

国会のねじれが解消されて、これからは「決められる政治」が到来するといわれています。
しかし、肝心の「決められる」とはどういうことかの議論はありません。
決められなかったのが、ねじれのためだったとマスコミはさかんに言っていましたが、マスコミは大政翼賛会的な方向づけに加担していただけです。
「決める主語」に関しては、関心はあまりないでしょう。

たしかにこれからは、政府はどんどん決めていけます。
反対勢力は弱小になったからです。
原発再稼動もいまや簡単な話です。
誰に気兼ねすることもないからです。
消費税も上げられるでしょうし、大企業減税も出来るでしょう。
言論の自由を制限することも、憲法を変えることも出来るかもしれません。
なにしろ国民は「(政府が勝手に)決められる政治」を望んでいるからです。
私には狂気の沙汰です。

最近の政治が決められないのは、生活に立脚していない、無理なことを決めようとしているからではないかと、私は思います。
いろんな利害を紛れ込まそうとしていることもあるでしょう。
あるいは国民の考えがまとまっていないからかもしれません。
国民の意見がばらばらなのは、価値観の違いもありますが、情報が共有されていない事が大きいように思います。
これにはマスコミの報道の仕方に問題を感じます。
いずれにしろ、決して国会のねじれだけが問題ではないでしょう。
そもそも、国会のねじれで決まらないようなことは、急いで決めなくてもよいのではないかと思います。

民俗学者の宮本常一の「忘れられた日本人」と言う本があります。
そこに収録されている『対馬にて』に、有名な寄り合いの話が出てきます。
時間をかけて、みんなが納得できる結論を出していくという、日本的な民主主義の文化として、よく取り上げられる話です。
そこではだれも、急いで決めようなどとはしません。
話し合いの過程をともかく大切にするのです。
相手を説得しようという話し合いではなく、みずからの世界を豊かにしていく話し合いです。
そういう文化を、私たちは忘れてしまいました。

昨日、「生活を忘れた日本人」というのを書きましたが、私たちが忘れてしまったのは生活ではなく、日本の文化かもしれません。
だからTPPもみんな受け容れられるのでしょう。
TPPを受け容れることは、日本人であリつづけられなくなることだろうと私には思われますが、それを嘆く人は、そう多くないのかもしれません。
しかし、私は、日本人であることをこれからも大事にしたいと思っています。

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2013/07/23

■節子への挽歌2137:食事と睡眠が好きではありません

節子
最近、寝不足が続いています。
暑さのせいでは、たぶん、ありません。
だからといって、ほかに確たる理由があるわけではありません。
なぜか真夜中に目が覚めるのです。
そしていろいろと考えごとが浮かんできます。
考えるのもわずらわしいので、寝室のテレビをかけます。
テレビを見るわけではありません。
何となく音がするのが落ち着くのです。
そしてそのまま、寝るでもなく寝ないでもなく、朝を迎えます。
まあ寝ているのでしょうが、どうもすっきりしないのです。
人間、寝ないですめばどんなに幸せだろうと思うことがよくあります。
私は、寝ることが好きではないのです。

寝ることだけではありません。
食事も、私には面倒くさい時間です。
人間、食べずにすめばどんなに楽でしょうか。

というわけで、人にとっての楽しみが、私には面倒くさいことなのです。
こうなったのはいつからでしょうか。
節子がいなくなってからでしょうか。
節子がいなくなってからそうした傾向が強くなったのは間違いありませんが、必ずしもそうではないのです。

私の食事時間が短いのは、節子には不満でした。
珈琲を飲む時間はゆっくりですが、食事時間はなぜかすぐ終わってしまう。
今も、ユカが、折角時間をかけて食事を作っても、お父さんは10分で食べ終わってしまうからなあ、と嘆いています。
まあ10分は大げさですが、それでも20分もあれば、食事は終わってしまうのです。
それで、まだ食事を食べている節子に、ちょっと仕事をしてきていいかなあ、と言って食卓を立ってしまうことも多かったようです。
節子は、そうした、食事よりも仕事が好きな私が好きではなかったと思います。
仕事ばかりだからと、嘆いていました。

しかし、私は仕事ばかりしていたわけではないのです。
仕事を休んで、節子と一緒に旅行したり美術展に行ったりもしました。
それに、食事の時に、話をしなかったわけでもありません。
わが家の食事は、いつも話が飛び交っていましたから。
でもふだんの私の食事時間は、いつも短かったようです。

食事は、生活や文化の基本です。
それを20~30分で終わらせてしまっていたのは反省しなければいけません。
今頃になって、節子に悪かったなあと気がつきました。

ちなみに、娘がいなくて、一人だけで食事をする時には、10分もかかりません。
どうも私の生活は、貧しいようです。
ただし、朝食だけは少しだけ時間をゆっくり取っていますが。

彼岸にいる節子には、食事も睡眠も必要ないのでしょう。
実にうらやましい。
そうした世界はたのしいでしょうね。

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■選挙が終わったら原発事故関係の報道が増えてきたような気がします

気のせいかもしれませんが、選挙が終わったら、原発事故関係の報道が増えてきました。
福島の井戸水の汚染データも詳細が発表されましたが、記者が選挙が終わったので出したのですかと質問していたのが印象的でした。
除染の費用も発表されました。
もっとも、この数字はかなりいい加減なものであることは、私のような素人にも明々白々です。
テレビのニュースで、「最大で5兆1300億円(百億円単位の数字が間違っているかもしれません)」と言っていましたが、「最大で」などといえるわけがないでしょう。
ともかく原発事故関係では、いい加減な数字が出回りすぎです。
まともな良心を持った人がいないのか、知識不足かのいずれでしょう。
テレビのレポーターやキャスターも、原発事故に関する表現が変わってきたような気もします。
かなり突っ込んだ発言も出てきました。
何をいまさらと、私には不快感がありますが、まあそれは歓迎したいです。

除染のために一人当たり3000万円の除染費用を使うよりも、その金額を個人に支給して欲しいという人の発言をテレビで取り上げていました。
除染費用の大半は、企業を通して、おそらく被災者とは関係ない人たちに行くでしょう。
それよりも被災して困っている人たちに、全額を渡せば、効果的に使われるはずです。
除染だとか帰宅可能だとか、まやかしはやめて、事実をきちんと開示して、当事者に判断させるのがいいだろうと思いますが、そうはなっていません。
なにやら昨今の動きには違和感があります。
しかし、福島の人たちは選挙結果を見る限り、これまでと同じ政府を選びました。
まだ原発を続けたいと思っているわけです。
自民党は原発依存を主張し、民主党は大飯原発を現に再稼動させた人たちです。
福島の被災者たちの視点にはまったく立っていないような気がしますが、福島県民はそれを選んだのです。
それがどうしても理解できません。

昨年、福島の飯舘村で、かーちゃんの力プロジェクトの代表の渡邉さんが「ここに来てくれた大飯の人たちの考えは変わりました」と話してくれましたが、肝心の福島の人たちの考えは変わっていなかったわけです。
それがとてもショックです。

人はなかなか変われないのかもしれません。
しかし、原発事故に関する事実は、みんなもっと真剣に知ろうとする必要があります。
「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」はぜひ読んでほしいです。
宗像良保さんの「フクシマが見たチェルノブイリ26年目の真実」もお勧めです。

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2013/07/22

■節子への挽歌2136:「人は死ぬと無になってしまう」のか

節子
先日、この挽歌にコメントを下さった方から、メールが届きました。

大切な人を亡くした人は、その存在を感じている人がいると思うのに、
私は、その存在を感じずに、「人は死ぬと無になってしまう」と考えてしまっています。
前後を切り離しての引用ですので、その方の思いを正確には引用していませんが、私自身は、「人は死ぬと無になってしまう」とは思っていません。

今日、テレビで「地球千年紀行」とい+う番組を見ました。
毎月1回放映されている番組で、東大名誉教授の月尾さんが、世界の先住民族たちの文化や暮らしを紹介してくれる番組です。
今日は、インドネシアのトラジャ族の話でした。
おそらく数千年前にトラジャ族は船に乗って日本にもやってきて、原日本人の文化にも影響を与えただろうと思うほど、親しみのもてる人たちです。
それはそれとして、トラジャ族の葬儀は盛大です。
彼らは、人の死を病にかかった肉体から自由になって、旅立つことだと考えています。
だから、葬儀は旅立ちの儀式です。
つまり、人は死んではいないのです。

最近、老化により、肉体の制約を感ずることがあります。
疲れやすく無理がきかない。
そうした自分の肉体を、いまいましく思う自分といたわろうとする自分がいます。
そういう状況では、自分の肉体は、いわば自分のものであって、自分のものでないのです。
肉体とは別の自分が、まちがいなくいます。
だとしたら、肉体が死んでも、自分がいてもおかしくない。
そういう思いが、最近特に強まっています。

たしかに、肉体がないと自分を表現することができません。
しかし、表現しないからといって、思いがないわけではない。
肉体がないからと言って、自分がいないとは言い切れない。
少なくとも、肉体が自分のすべてだと思っている人はいないでしょう。
自分が望まないのに、肉体が動き出すことを体験されたことはないでしょうか。
肉体と自分とは、別の存在なのです。

とても粗雑な説明ですが、最近そういう思いが強いのです。
「死ぬ」とは、要するに肉体が機能不全を起こし、生体であることを維持できなくなるだけの話です。
つまり、肉体が死ぬのであって、人が死ぬのではない。
トラジャ族の人たちが考えているように、肉体の死は、人としての次に段階に移ることかもしれません。
もしそうなら、死は誕生にもつながっていきます。
なにやらややこしい話ですが、最近、そんな風に思えるようになってきました。
死は誕生なのだと。

ところで、メールをくださった方が、「愛した人の存在が感じられない」というのは、愛する人が自らの中にいるからではないかと思います。
宿っていた肉体がなくなったら、あなたならどこに行きますか。
私なら、愛する人の肉体に、とりあえずははいりこみたい。
つまり、あまりに身近すぎて、実感できないのです。
しかし、そのうち、感じられるようになるでしょう。
私が、そうでしたから。

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■山本太郎さんの主張はしっかりと聞く価値があるように思いました

今回当選した山本太郎さんがテレビでインタビューを受けているのをいくつか見ました。
質問者側の質問が、いかにも陳腐でしたが、彼の回答には好感が持てました。
歯切れよくきっぱりと発言しています。

今日のお昼の「スクランブル」では、山本さんの発言に司会者がひやひやしているのがよくわかりました。
あきらかに画面がディレクターを意識していました。
早々に山本さんのインタビューを切り上げた後、次の話題が大阪の同級生殺害事件の詳細レポートだったのにも唖然としました。
コメンテーター役の一人、なかにしれいさんだけは、山本さんにエールを送りました。

その後の「情報ライブミヤネ屋」では、経済産業省出身の岸さんはともかく、宮根さんはやはりかなり難癖をつけている感じを受けました。
ともかく生出演といいながら、話を聞くのではなく、話を抑える感じが強かったのが不快でした。
痛快だったのは、宮根さんの質問に、山本さんが「そういう刷り込みこそが問題だ」と切り替えしたところでした。
宮根さんが、誰の代弁者かを如実に示していますが、宮根さんはそれにさえ気づいていないでしょう。
この番組は原発再稼動応援の方向でずっときていますから、仕方はありません。

日本では、やはり出る杭は打たれるようです。
山本さんはまたテレビでは声がかからなくなるでしょう。
少なくとも日本テレビには呼ばれなくなるでしょう。

私はこの2つしか見ていませんが、山本さんに思い切り話させてやる番組を期待しています。
もちろんネットでは、そうした山本さんの映像は見ることができます。
だからこそ、あれだけの風が起きたのですが、たぶん大人たちの多くは冷やかでしょう。
たかがタレント上がりと思っているかもしれません。
たしかに、山本さんの発言はソフィストケートされておらず、先入観に呪縛されている常識人たちには反発されるかもしれません。
あまりに表現が単純化されているのも、現代人の嫌うところです。
現実はそんなに簡単ではないというのは、似非知識人の常套句ですが、しかし真実はシンプルなのかもしれません。

今回の選挙結果は私には大きな失望でしたが、山本太郎さんが当選したのは、もしかしたら大きな風の予兆かもしれません。
そういえば、沖縄では、糸数さんが当選しました。
まだ未来は諦めなくてもいいかもしれません。

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■節子への挽歌2135:退屈さの中でこそ大切なものが見えてくる

節子
昨日の選挙結果にはやはり気が萎えてしまいました。
そうなるだろうと思いながらも、いつも選挙には期待してしまいます。
そして毎回、がっかりしてしまう。
この繰り返しです。

時評編に書いたのですが、昨日、「小さな村の物語」のなかで印象に残った言葉があります。
「生きていれば退屈なことが多い。でも、退屈なことを続けていると、大切なことも見えてくる」という言葉です。
これは一昨日に挽歌に書いたことにつながっています。

女性は、「退屈さ」を生き抜くのがうまいように思います。
いや、そもそも「退屈」という概念がないのかもしれません。
昨日と同じ家事を行いながら、「大切なもの」を感じている。
女性の生き方は、そんなような気がします。
少なくとも節子はそうでした。
節子が「退屈」という言葉を使った記憶がありません。

一方、男性は「退屈」な繰り返しを嫌う傾向があるように思います。
少なくとも私はそういう傾向があります。
良くなろうと悪くなろうと、ともかく「変化」が好きなのです。
そんな生き方をしていれば、「大切なもの」など見えてはこない。
しかし、絶えず動いていると「大切なもの」が見えてくるだろうと期待するわけです。
そして、逆に「大切なもの」を失ってしまうのです。

私が、変化よりも継続が大事だと思うようになったのはいつからでしょうか。
たぶん節子と一緒に、会社を起こして、時間を共にする事が飛躍的に増えてからです。
節子の人生も、私の人生も、変わりました。
そして、いつの間にか、節子と一緒だと退屈を感ずることがなくなったのです。
実は、繰り返しの中にこそ、変化があるからです。
節子との暮らしは、それに気づかせてくれました。
大仰に言えば、生き方が変わったのです。

退屈さの中でこそ、大切なものが見えてくる。
本当にそう思います。

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■煙石事件への疑惑

昨日、書こうと思いながら、選挙のことが気になって、書くのを忘れてしまいました。
昨日の読売新聞の記事です。
ちょっと長いですが、引用します。

大阪府警北堺署が1月に起きた窃盗事件で男性会社員(42)を誤認逮捕し、大阪地検堺支部が釈放していた問題で、犯行を裏付ける有力な物証とした事件現場の防犯カメラ映像で、男性が映っていた時刻が犯行時刻とずれていたのに、同署が確認を怠っていたことがわかった。
府警は、20日午前、大村喜一・刑事総務課長が「誤認逮捕はほぼ間違いないだろう。恥ずかしい話だ」とずさんな捜査だったことを認め、事実関係の確認後、男性に謝罪する考えを明らかにした。
男性は「身に覚えがない」と一貫して容疑を否認。男性の弁護人が調査したところ、男性が犯行時刻の1分後、GSから約6・4キロ離れた阪神高速堺線堺入り口を通過したことを示す自動料金収受システム(ETC)の利用記録が見つかった。
府警が改めて防犯カメラの時刻を調べると、正しい時刻とはずれがあったことが判明。弁護人によると、防犯カメラの時刻は約8分進んでおり、男性が給油したのは午前5時34分頃だったことがわかった。
私がこの事件を知ったのは、朝のテレビのニュースです。
それを知って、すぐに「煙石事件」を思い出しました。
これに関しては、CWSコモンズに書きました。とても理解し難い事件です。

しかし、多くの人はみんな、これは「自分とは関係ないだろう」と思いがちです。
厚生労働省のキャリアだった村木さんの事例もあります。そこに落し穴があります。
ニーメラーの反省は、他人事ではないのです。

不当逮捕で、人生は簡単に壊れます。
そして、それによって社会も国家も壊れていきます。
すべての始まりは、ちょっとした小さな事件からなのです。
煙石事件に関心を持つのは、そう思うからです。
もし時間が許せば、みなさんもぜひちょっと気にしてもらえればうれしいです。
ネットでいろいろでてきます。

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2013/07/21

■生活を忘れた日本人

今日の参議院選挙の投票結果がわかりだしてきました。
その結果は、私には嘔吐したくなるほど醜いものです。
特にショックだったのは、原発事故を体験した福島県民が原発を再稼動させようとしている自民党を選んだことです。
これまでの福島県民への私のシンパシーは消えました。
やはり原発を誘致した県民でしかなかったような気がして、怒りを感じます。
あまりに衝撃的だったので、いまはかなり感情的になっていますので、明日になったら、この記事を削除したくなるかもしれません。
しかし、いまのこの感情はどこかに残しておきたいとも思います。
それは、自分への怒りでもあるからです。

今日、テレビで放映していた「小さな村の物語 イタリア」を観ました。
そこで、次のような言葉に出会いました。
誠実に生きている村人の発言です。

生きていれば退屈なことが多い。
でも、退屈なことを続けていると、大切なことも見えてくる。
この番組には、毎回、生活者の深遠な言葉が出てきます。
日本の政治家が選挙の時に語るような空疎な言葉ではありません。
実に深さを感ずる言葉です。
福島の選挙結果速報を見て、この言葉を思い出しました。
福島の県民たちは、原発に惑わされて、退屈なことを続ける暮らしを捨ててしまったのではないかと、ふと思ったのです。
だから、大切なものが見えなくなってしまった。

しかし、これは福島県民だけではないでしょう。
私自身もそうなのです。
いまの日本人は、だれもかれも同じかもしれません。
生活を忘れてしまった日本人。
イタリアの「小さな村の物語」に出てくる豊かな暮らしぶりが、少し前まで、日本にもあったはずですが、それがなくなってきている。
それを壊してきたのは、私たちの世代だと思うと、福島県民だけを呪うわけにもいきません。

今日の選挙結果をテレビで見ながら、自己嫌悪に襲われています。
これからどうなるか、憂鬱です。

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■節子への挽歌2134:節子との政治論議が懐かしい

節子
今日は参議院選挙の投票日です。
結婚以来、選挙には必ず一緒に投票に行きました。
意見が分かれることは多かったですが、基本的なところでは同じでした。
今回もし節子がいたら、たぶん私と同じ人に投票したでしょう。
節子は、選挙には私よりも誠実でした。
候補者の主張をよく読んで、誰に投票するかを考えていました。
投票に行かない人がいると怒っていました。

しかし、最近は投票に行かない人が増えてきました。
今回の投票率は予想通り、かなり低くなりそうです.
節子と一緒に投票に行っていた頃は、投票所で並んだこともありましたが、今日は閑散としていました。
だんだん投票に行かない人が増えているのかもしれません。
さびしいことです。

節子の関係で、いまも選挙になると手紙が届きます。
昨年まで、節子の名前で届くこともありました。
節子が亡くなったことを伝えて名前を削除してもらいましたので、今年は届きませんでした。
ちょっとさびしい気もします。

政治の論点に関して、節子とよく話し合ったものです。
節子は、特に主張があるわけではありませんでしたが、生活者視点でした。
節子と話すことによって、いろんな気づきをもらったこともあります。
節子との政治論議が、とても懐かしいです。
娘たちとは、そういう話はなかなか出来ません。

今日の選挙結果で、また私は元気をなくしそうです。

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2013/07/20

■節子への挽歌2133:ほんのわずかなものとほんのわずかなこと

節子
人が幸せであるためには、ほんのわずかなものとほんのわずかなことがあればいいのですが、皮肉なことに、そのことに気づくのは、それを失った時なのです。
ということは、人は本来、幸せなのだということかもしれません。
生きていることが幸せなのです。
しかし、ある時、あまり意識していなかった「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」が失われてしまうと、幸せの世界から追い出されてしまうわけです。

「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」。
私の場合は、何の華やかさもない節子との日常の暮らしでした。
それが失われてからは、私には幸せはなくなってしまいました。

一昨年の東日本大震災や原発事故で、なんでもない日常の暮らしを失ってしまった人たちは、たぶん、幸せとは縁遠い世界に追いやられたと思いますが、同時に、それまでの幸せにも気づいたことでしょう。
幸せとは、気づいた時には、もうないのです。
実に皮肉な話です。
被災者のみなさんが、一番欲しいのは、「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」でしょう。
でもそれは、もう手には入りません。

「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」と書きましたが、実は「わずかな」ではないのです。
その「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」は、常にあるからから「わずか」な存在になっていますが、自分を包み込むほどに、時空間を超えて、存在しています。
たとえば「空気」や「水」がそうです。
意識しないですむほどに、その「わずかなものやこと」は、日常の暮らしに充満しているのです。
充満しているが故に、その大切さに気づかない、
そんな「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」は、私の場合、節子以外にもきっとあるのでしょう。
でも、節子がそうであったように、それもまたなくなってみないと、わからないわけです。

節子は発病後、一日一日を大事に生きていました。
今日も良い一日だった、明日も今日のようにありますように、と寝る前に祈っていました。
節子は、「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」の大切さを知っていたのです。
だから、私よりも幸せだったのかもしれません。
それに、節子には私がいましたし。
節子は最後まで幸せだった。
そう思うと、少し心がやすまります。
しかし、私はこれからずっと不幸せなのかと思うと、心はやすまりません。

幸せについて考えることはほとんど意味はありませんが、時々、ふと、考えてしまいます。

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2013/07/19

■節子への挽歌2132:最近私はいったい何をしているのだろうか

節子
最近、自分が何をやっているんだろうかと思うことが少なくありません。
何かに「流されている」ようで、無意味な活動ばかりやっているような気がするのです。
今日もサロンで湯島に来ていますが、みんな迷惑しているのではないかという気が時々します。
私が声をかけるので、しかたなく参加している可能性がゼロではないのです。
私は私で、サロン疲れをしています。
どこか、何かが、間違っているように思います。
もしかしたら、気をまぎらすために、動いているだけかもしれません。
そうだとしたら問題です。

節子がいなくなってから、私も以前ほど、能天気ではなくなり、いささか哲学的になりました。
生と死についても、それなりに考えてきました。
色即是空、空即是色も、まあ少しだけですが、実感できるようになりました。
しかし、世界がそれなりに見えてくると、生きることが退屈になってきます。
そして、時々、自分はいったい何をしているのだろうかと思うわけです。
自らのやっていることに疑問や迷いが出てくることほど、辛いことはありません。
心身がずれてくるのです。

生活が単調だからではないかとアドバイスしてくれる人がいます。
たしかにそうです。
しかし、そもそも節子がいない世界は単調なのです。
おそらく愛する人や愛する事物を失った人には、わかってもらえるでしょうが、なぜか世界が単調になってしまうのです。
そしてそこから抜け出られなくなるのです。

実は抜け出る方法は簡単なのです。
しかし、それができません。
困ったものです。
その方法とは、ただただ抜け出ればいいだけなのです。

湯島のオフィスに丸い水槽に入った白メダカがいます。
今日は時間があるので、それをしばらく見つめていました。
彼らはこの水槽から跳び出そうと思えば、跳び出せます。
これまでも2匹のメダカが跳び出しました。
その結果は、しかし、干乾しになるのです。
メダカにとって、それがいいことなのかどうかはわかりませんが、現状を抜け出る方法は簡単なのです。

外は夏のような暑さです。
学生のころ観た、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニの映画がなぜか思い出されます。
節子に会った頃、私が気に入っていたのが彼の監督作品でした。

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■節子への挽歌2131:苦労の重さに苦労しています

節子
人生には苦労はつきものですが、最近はなぜか苦労が押し寄せてきます。
まあこれまであまり苦労を苦労してこなかったからかもしれません。
節子がいた頃は、私にとって一番苦手の苦労は、すべて節子の担当でしたし。
人生において引き受けなければいけない苦労が一定量であるならば、もっと若い時に引き受けるべきでした。

しかし、ものは考えようで、苦労も豊かさのひとつと思えばいいだけの話かもしれません。
事実、それは全く根拠のないことではありません。
何もすることのない退屈な人生よりも、苦労が多い人生のほうが、退屈ではないでしょう。
これはかなりの負け惜しみ的な強がりかもしれませんが。

苦労が多いと、時間が経つのがなぜか早いです。
ちょっと気を抜くと、すぐに挽歌を書き忘れます。
挽歌を書くことで生活にリズムをつけようと思ってはいるのですが、それはそう簡単ではありません。
暇なのですが、こまごまと時間をとられることが増えているのです。

しかし、なぜか最近、挽歌に反応してくれる人が集中しています。
昨日は、初めて私の挽歌を読んだ友人が、間違ってメーリングリストにそのことを書き込んでしまいました。
メーリングリストの場合、一挙に全員に届いてしまうので、私も冷や汗をかいてしまいました。
この挽歌は、あまりに素直に自分の感情を開け放していますので、あまり読まれたくないと思う人もいないわけではありません。
しかし、その反面、思いもかけなかった人が読んでいるのを知ると、その人との距離感が急になくなってしまうような気もします。
人との関係は不思議なものです。

ところで、人生の苦労ですが、苦労を一緒に背負い込むと、これもまた距離感が変わります。
節子とは40年以上にわたり、苦労を背負いあいました。
どちらかといえば、節子のほうに背負わせすぎていたかもしれません。
節子は不満を言いませんでしたが、今にして思うと、私がいいとこ取りしすぎたような気もします。
でもまあ、苦労を共に背負ったおかげで、私たちの距離感はなくなりました。
苦労も2人で背負えば、苦労どころか楽しくさえなるものです。

しかし、苦労を共にすることが、必ずしもいつも「良い方向」にいくとは限りません。
注意しないと人嫌いにもなりかねない、苦労のシェアの仕方もあるのです。
最近は、ちょっと苦労の重さに苦労しています。
節子に少しシェアしてほしいです。

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■新しい働き方と新しい協同組合

17日に協同組合をテーマにしたサロンを開催しました。
前回は、農業協同組合の父ともいわれるライファイゼンからの流れを農林中央金庫の田中さんに話してもらい話し合ったのですが、参加者からぜひこうした話し合いの場を続けたいという声があり、第2回目を開催しました。
今回は、ワーカーズコープちばの菊地謙さんに、ロッチデール原則の流れから「協同労働の協同組合という働き方」というテーマで話題提供してもらいました。
今回は、以前、私も参加していた共済研究会のメンバーが数名参加してくれました。
その研究会の代表でもある青山学院大学教授の本間さんも参加してくれましたが、本間さんは現在の日本の協同組合に関して強い危機感をお持ちです。
昨年、韓国で協同組合基本法が成立しましたが、菊池さんはそのスタディツアーにも参加しています。
今回は韓国のそうした動きにも詳しい佐々木さん(今は帰国していますが)も参加してくれましたので、韓国の話題も少し出ました。
日本でも以前から「協同労働の協同組合」法制化の動きがあり、2000年には法制化市民会議も設立されました。
私もそれに参加させてもらいましたが、一時は大きく盛り上がりましたが、なかなか実現せずにいます。
私自身は、その後、法制化を目指すことが間違いではないかという思いが強まり、最近は全く興味を失ってしまいました。

今回、菊池さんは「協同労働の協同組合という働き方」ということで、たくさん刺激を与えてくれました。
菊池さんは、さまざまな実践にも関わっていますので、1日かけて、それぞれを議論してもいいような話題ばかりでしたが、サロンですので、深掘りできずに残念でした。
いつか1日かけてのラウンドテーブルセッションを開催したいと改めて思いました。

議論は多岐にわたったので報告しにくいですが、私は協同組合がいま大きなパラダイム転換の時期に来ていると思っています。
農協や生協などのこれまでの協同組合は企業経営をモデルにしすぎたように思いますが、それは時代の状況からみて、やむをえなかったと思います。
不足の時代の協同のあり方と言っても良いでしょう。
しかし、昨今の時代状況は「過剰の時代」です。
そこでの経済学がパラダイム転換を求められているように、新しい働き方が問われていると思います。
ワーカーズコープは、そのひとつに切り口です。

主体的に働くこと(つまり雇用関係をとらないこと)、働きを金銭で評価しないこと、生活と対比させるのではなく生活の重要な要素にすること(ワークライフバランスなどという発想を捨てること)などが、私が考える働き方です。
会社を辞めた後、雑誌に「脱構築する企業経営」という連載記事を書かせてもらいました。
毎回、考えながらの連載でしたが、1年後の結論は、協同組合こそがモデルではないかということでした。
その結論に失望したとみんなから言われましたが、今はますますその思いを強めています。

新しい働き方が新しい社会をつくっていくでしょう。
新しい社会が新しい働き方をつくるのではありません。
しかし、現状は、たとえば「ニューエコノミー」といわれる社会においては、開発的な創造的仕事と作業的な歯車労働(非正規労働で対応可能)とに分かれるように、働き方が強制されていきかねません。
そこでは「働くこと」の本質が損なわれています。
働く主体は、常に個人でなければいけません。

25年前に会社を辞めた時、そういう問題を考える必要を感じ、2つの組織の立ち上げに関わりましたが、いずれも私の思いとは全く別のものになってしまいました。
それぞれが軌道になった段階で組織を離れましたが、その後は、まずは私自身がそういう働き方とゆるやかなネットワークづくりをしようと生きてきました。
私の怠惰さもあって、私だけでとどまっていますが、せめてもう一度、そうしたことを考える場があるといいなと思いなおしつつあります。

そんな思いもあって、この集まりは継続することにしました。
メーリングリストも立ち上げる予定です。
一緒にやろうという方がいたら、ご連絡ください。
次回の集まりは9月9日の予定です。

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2013/07/18

■参議院選挙に思うこと13:私は「人を殺す」ことが好きではありません

このシリーズは、今回で最後にしようと思います。
それで、私自信の選択基準を書きます。
それは極めてシンプルです。
「人を殺すことを強要する人に投票しない」
「人を殺すことに鈍感な人には投票しない」
「嘘をついて生きている人には投票しない」
この3つです。

「人を殺す」とは、いささか物騒な言葉ですが、たとえば、戦争や軍隊を認めることは政府が敵国の人を殺せといった時に拒否するのが難しくなります。
たとえば、原発は人を殺しかねない危険な存在です。だから私はその存在を許せません。
つまり、反原発と平和憲法維持が、私にとっては絶対的な判断基準です。
「嘘をつかない」は、所属政党の主張と矛盾した主張をしていないことです。
これは、その人の生き方の本質を象徴しています。

この3つの基準で考えると、投票候補者(投票政党)はすぐに絞れます。
運よく複数の該当者(政党)がいたら、候補者の場合は年齢の若い方です。
政党の場合は、少し複雑ですので、省略します。

ただ次の補足基準があります。
選挙期間中に電話をかけてきた場合は、無条件に対象から外します。
私の場合、共産党は、その理由でいつも投票できません。困ったものです。

ところで、多くの人たちは、「人を殺す」ことに違和感を持たない政党や政治家が好きなようです。
殺したり殺されたくなかったら、自民党に投票するはずがないからです。
なぜ多くの人が、自民党政権を歓迎するのか。
私にはそれが全く理解できません。
しかし、新聞やテレビが、殺人事件を好んでよく取り上げる風潮を見ていると、そういう人たちがきっと多いのでしょう。
テレビのニュースの編成局の人たちは、どうしてあんなにしつこく報道するのでしょうか。
もしかしたら、これもまた選挙とつながっているのかもしれません。

参議院選挙に思うことを気の向くままに書いてきましたが、いまの世情が見えてきます。
やはり、まずは自分の生き方を問い質さないといけません。

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■参議院選挙に思うこと12:選挙結果を誘導する報道が多すぎます

新聞ではもう選挙結果予想の報道が始まりました。
たとえば、今朝の朝日新聞によれば、「与党、過半数は確実 自民、改選議席倍増の勢い」だそうです。

投票日に投票が締め切られると、その途端にテレビでは「当選確実」が報道されます。
投票所の出口調査の結果なのですが、これは選挙への冒涜行為だと私は思っています。
選挙活動期間中に結果予測をして大々的に発表するのも、同じことだろうと思います。
投票所の出口調査が結果を言い当てるのであれば、投票日前の調査もまた結果を言い当てる水準になっていくでしょう。
そうなれば、選挙は茶番劇化します。
マスコミはよってたかって、選挙制度の真髄を壊してきていると、私は思います。

選挙の投票に行くと言う行為は、単に代表を選ぶだけではありません。
これは国民が主権者であることを思い出す一種の儀式であり、結果以上に、投票行為が意味を持っていると思っています。
そうした選挙の意味を、集計作業の始まる前に結果を発表していいものなのか。
とても違和感があります。

事前投票でも出口調査は行われているのでしょうか。
統計学的に言えば、事前投票の出口調査で、結果をかなり精度高く予測できるでしょう。
もしそうならば、投票に行くのは、なにか虚しくなります。
出口調査の結果は投票終了までは発表は出来ないようですが、終わった途端にテレビで発表されるということは、事前にかなりの人たちが知っていると言うことです。
私には、どう考えてもフェアなことではありません。

投票日前のアンケート調査は、さらにフェアとはいえません。
しかも、調査結果はおおっぴらに発表してもいいようです。
それは必ず投票予定者に影響を与えます。
にもかかわらず選挙違反にはならないのは、これもおかしい。

しかも、選挙に関する番組で多くの人は「今回の結果はもう分かっている」と口にします。
自民党が圧勝するというわけです。
こうした行動はたぶん投票率を下げる方向に働くでしょう。
そういう発言には、私は蹴飛ばしたいほど不快になります。
神様ではあるまいし、やってもいないのに、なぜわかるのか。

選挙はやってみなければわかりません。
知ったような政治評論家にだまされてはいけません。
事前調査など信じてはいけません。
真剣に考えた1票あれば,必ず無駄にはならないはずです。


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2013/07/17

■参議院選挙に思うこと11:世論がつくられていくことへの危惧

相変わらず現状維持の方向で状況は進んでいるようです。
しかし、新聞の論調が少し変わってきたようにも思います。
たとえば、今朝の朝日新聞の社説に「ねじれは問題か」と書かれていました。
これまで「ねじれ解消」を煽っておいて、なにをいまさらと思いますが、日本のマスコミの論調は基本的に大勢に同調的です。
それを痛感したのは、小選挙区制の導入でした。
テレビでご一緒した某紙の高名な論説委員が小選挙区制を批判したのです。
その新聞はそれまでは小選挙区制導入を煽っていたように思っていましたので、唖然としました。
そういうことが多すぎます。

マスコミが同調する「大勢」とはなんでしょうか。
世論調査を考えてみましょう。
現在の選挙期間中にも、支持政党だと何を重視するとかに関する世論調査なるものが定期的に発表されます。
そこでの「大勢」が、マスコミの参照基準のような気がします。
しかし、こうした世論調査は、デルファイ法のように繰り返されることによって、大政翼賛会的に意見を集中させていく傾向があります。
多くの人がそう思うなら、それがいいのだろうという大勢依存型の判断を、私たちは無意識にしがちです。
世論調査が繰り返し行われることによって、意見は収斂しがちです。
そこに、ある「意図」が入ったらどうなるか。
つまり、その大勢こそは、マスコミが自ら作れるものでもあるのです。
そこに、大きな危惧を感じます。

誰もが意見表明できる選挙は、世論を育てていく絶好の機会です。
問題は、だれが形成の主役か、です。
選挙民一人ひとりが、さまざまな意見に触れて自らの考えを整理し、それを投票で表明し、それが結果として政治の方向を決めるのが望ましいことはいうまでもありません。
しかし、「さまざまな意見に触れて自らの考えを整理」するほど、多くの人は時間がありません。
だから「みんなはどう思っているのだろうか」という発想に陥りがちです。
平均からはずれない生き方を叩き込まれてきた最近の私たちは、自分の意向よりも、「みんなの意向」を重視しがちです。
なかにはまだ、「有識者」の意見に依拠する人もいるでしょう。
「有識者」ほど自分のない人はいないのですが。
そうした状況を利用して、世論を育てるのではなく、世論を誘導する動きには注意しなければいけません。
世論調査結果やマスコミの論調に惑わされることだけはしたくありません。

まだ2人からしぼりきれていません。政党もまた迷いが出てきました。

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2013/07/16

■節子への挽歌2130:自らの不誠実さへの慙愧の念

お天道様が見ている話の、その2です。
昨日、この挽歌にコメントが寄せられました。
まったく知らない人からのコメントです。
コメントを再掲させてもらいます。

一昨年の暮れに父を亡くし、その後節子さんへの挽歌を読ませていただいています。
ほぼ毎日PCを開くとたくさんある中のどれかを読んでいます。
このところ更新がなかったので、どうかなさったのかと勝手に思っていました。
おとといは、「小さな村の物語」を見ながら、その時も佐藤さんはみているかな?と思ってました。
今日更新があったので、ついメールしてしまいました。
これからも、節子さんへの挽歌を楽しみにしています。
毎日書かれていた挽歌が書かれていないと、どうかしたのかと思われるのは当然です。
もちろん「どうかした」のですが、それを書かないのも、読んで下さっている人には失礼なことかもしれません。
「書く」のが目的の挽歌であっても、私だけの都合で勝手にやめてはいけません。
それは、私の生き方に反します。
節子はそのことをよく知っていました。
一度、口に出したことは守らなければいけません。
毎日書くといったのであれば、書かなければいけない。

今月になって、挽歌が書けなくなったのは、もちろん理由があります。
節子の看病への後悔、節子との一緒の暮らしへの反省、そうしたことが山のように心身に降り注いできたのです。
慙愧の念が降り注ぐようになったのは、今月に入ってからの、知人友人との話と体験からです。
自分の生き方の不誠実さを思い知らされたのです。
私がもう少し誠実だったら、節子は治ったかもしれない。
いや、発病さえしなかったのではないか。
そうした思いが、また私の心身を落としてしまったのです。
それで、挽歌が書けなくなりました。
書くことで、不誠実さを糊塗するような気がしだしたのです。
「おととい」の「小さな村の物語」も見ませんでした。
あの番組に出てくる人は、みんなとても誠実に生きているからです。
自己嫌悪に襲われるのです。

愛する人を失った人は、どんな小さなことにでも傷つけられる。
そして、どんな小さなことでも、時に動けなくなる。
でもそれに甘んじるのも、誠実ではないかもしれません。
私に欠落していたのは「誠実さ」かもしれません。
節子がいたからこそ、私が誠実に見えていたのかもしれません。
最近、娘から、そのことを気づかされています。

話が少しそれてしまいましたが、大石さん、心配をかけてすみませんでした。
今度また書けなくなったら、その旨を予告することにします。
予告なしに挽歌の更新が暫くなくなったら、それは「突然死」ですね。
ちなみに、あと3年は「突然死」できない理由があるので、大丈夫でしょう。
何しろ、お天道様はちゃんと見てくれているでしょうし。

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■節子への挽歌2129:お天道様が見ている

節子
挽歌をまた書けるようになったのはいろいろな人からのメールや電話です。
見えなくとも、人はさまざまなものに支えられているのです。

まだお会いしたことのない人からのメールです。
その人は、「佐藤修さん」と書き出しています。

毎日ブログを楽しみに読ませて頂いているので、佐藤さんのお名前がすらすらと出てきました(^_^.)。
夫が自殺で亡くなった1年半前に初めて連絡をさせて頂いた、さいたま市に住んでいる・・・と申します。
その節はお電話口で「おつらいですね。」と優しい言葉を掛けて頂いて、泣かないようにするのが精いっぱいであまりお話も出来なかった様に覚えています。
実は、私もその時に、どう応えたのか記憶がありません。
「おつらいですね」とは、いかにも月並みですが、突然の時には、お互いにまあ月並みなことしか交わせないものです。
大切なのは、言葉ではなく、言葉の奥の思いなのでしょうが、電話ではそれが伝わるとは限りません。

湯島のオフィスは、自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあいの事務所にもなっています。
それで時折、その種の相談の電話もあります。
相手の勢いに、引きずり込まれたこともありますし、心身が萎縮することもあります。
その方の電話の時も、私は少し引いていたかもしれません。
なぜなら、そういう電話は慣れていないので、どうしてもまだ、構えてしまうのです。
構えてしまっては、相談になど乗れません。
面と向かってならばともかく、電話相談は私には向いていません。
その時も、何を話したか、記憶がないのです。
相手を傷つけたかもしれません。
その後、一度だけメールがあったきりで、音信が途絶えたので、気にはなっていたのです。
愛する人を失った人は、どんな小さなことでも傷つけられるものなのです。

その方からの、久しぶりの突然のメール。
こう書かれていました。勝手に引用させてもらってすみません。

屈折する気持ちを抑えて「私が幸せになれば、亡くなった夫も幸せだろう」と良い事だけを考えて、毎日明るく生活しています。
この言葉の奥にある思いは、伝わってきます。
私も、同じような言葉を発したことがあるからです。

この方は、最後にこう書いてくれました。

佐藤さん、体調は如何ですか?
ご無理をせず、でも近々、またフォワードカフェをやって下さいね。
必ず、参加しますから。
佐藤さんにお会いしたいです。
今月は、フォワードカフェをさぼってしまいました。
お天道様が見ていると、昔の人はよく言いました。
しかし、それは今も同じなのです。
気になっていたことが、ひとつ氷解して、ホッとしました。
そして、やはりまた書き出そうと思ったのです。

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2013/07/15

■節子への挽歌2128:出雲大社

節子
ユカが出雲大社に行ってきました。
今年は60年ぶりに遷宮の年なので混んでいるだろうと思っていましたが、案の定、人でいっぱいだったようです。

出雲大社に2人で行ったのは、もう何年前でしょうか。
私たちの生活は、そこから始まりました。
冬の夜、2人で京都駅から夜行列車で出雲に向かいました。
早朝に出雲に着き、そこから大社に向かい、本殿前で指輪を節子の指にはめて、それが私たちの結婚式でした。
もっとも、それには異議を唱える人もいたため、後で節子の実家で披露宴をする羽目になったり、他にもいろいろとありましたが、それが私たちの出発点でした。
そんな始まりだったので、節子はいろいろと苦労したでしょう。
いまから思えば、私のわがままさのとばっちりは、みんな節子にいっていたのでしょう。

実はほとんど出雲大社のことを覚えていません。
それがいつだったかも記憶がないのです。
節子はきちんと日記を付ける人でしたから、残されている節子の日記を調べたら書いているでしょうが、まあそれを読み直す気には、まだなれません。
過去の事を読んだところで、過去が蘇るわけでもありません。
私には、過去はもうどうでもいい話です。

記憶に残っているのは、むしろ日御碕神社と経島のウミネコです。
なぜか出雲大社そのものの記憶はほとんどないのです。
もし節子がいたら、ユカとの会話で何かを思い出したかもしれません。
昔のことを語り合う伴侶がいなくなったことで、私の記憶も半分どころか大部分が消えてしまったようです。

ユカから出雲大社の話を聞きながら、そんなことに気づきました。
ところで、本当に私たちは一緒に出雲に行ったのでしょうか。
確かに日御碕神社近くの海岸での写真は残っていますが、肝心の出雲大社の写真がないのです。
そういえば、過去の写真が消えていく映画がありました。
節子が残したたくさんのアルバムの写真はどうなっているでしょうか。
まだ見る気が起きませんが、もしかしたら永遠に見ることなく、終わるのかもしれません。
一人で見ても、リアリティは感じられないでしょうから。

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■節子への挽歌2127:赤後寺観音

節子
昨日も書きましたが、節子の幼馴染の雨森さんのメールを改めて引用します。

今年もわが集落(唐川)の赤後寺(しゃくごじ)観音の千日会法要が無事終わりました。
余りの暑さに、例年より少し参拝客が少なかったようです。
小生も例年のように接待などに顔を出していました。
挽歌2125でお書きのお姉さまが、今年もお参り下さいました。
膝の手術をなさったとのことで、観音様の石段がきついので下から拝んでおくとの事で残念でしたが、御志納もちゃんとあげて頂きました。有難いことです。
遠くから足が痛いのに、小生なら止めにしている事でしょうに。
しばらく唐川の仲間たちとも、下のテントで楽しく雑談をしました。節子さんの挽歌が続いている事も話題になりました。
又機会あれば、途中下車して下さいね。
赤後寺観音と言っても知らない人が多いと思いますが、滋賀県の湖北の高月町(いまは長浜市になっています)にあるお寺にある観音像です。
高月町は、節子の生家のあるところで、前にも書きましたが、観音を本尊にしているお寺が多いのです。
それで、高月町は「観音の里」と称しています。
一番有名なのは、渡岸寺の十一面観音です。
この観音はとても端正な顔をして、私が最初に会った時には大きなオーラを発していました。
残念ながら最近は、会う度に元気がなくなり、最後に見た時には、私にはオーラよりも悲哀を感じました。
見世物になってしまっていたのです。

それに比べると、赤後寺の観音は、まだ集落の人たちに篤く守られています。
私が最初に行った時には、まだ秘仏とされていましたが、いまはお願いすれば拝ませてもらえます。
毎年、7月10日の千日会法要には遠くからもおまいりに来るのだそうです。
雨森さんたちは、そのお接待にあたっていたのです。

私も以前、節子と2人で拝ませてもらったことが2回ほどあります。
一体は千手観音でしたが、渡岸寺の観音とはまったく表情が違うのです。
ちなみに、この周辺の観音たちは、ほとんどが集落の人たちに守られていますので、すぐ目の前で拝めます。
雨森さんが書いているように、節子の生家のある周辺の集落は、どこもとても信仰が篤く、暮らしが仏たちと共にあるのです。
その距離感がとても好きでしたが、最近は、渡岸寺のように陳列されてしまうスタイルになってきています。それがとても残念です。
しかし、赤後寺のある唐川は、まだしっかりとその文化が残っているのです。
私は、そこになかなか入れない異邦人のような存在ですが、節子が一緒だと、自然にその文化が伝わってきて、とても心地よかったのです。
しかし、節子がいない今となっては、どうも素直には足が向きません。

節子と一緒に、もう一度、赤後寺や渡岸寺の観音たちに会いに行きたかったです。

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■「助け合いの文化と仕組み」を考えるサロンのお誘い

私のオフィスは東京の湯島天神の近くにあります。
「コモンズ空間」を目指した時期もあり、いまもいくつかのNPOに場所を提供しています。
そこでさまざまなサロンを開催しています。
このブログでも時々案内していますが、サロンをできるだけ開いたものにしていくために、これからこのブログでもできるだけ紹介していこうと思います。

今月の17日(木曜日)には「協同組合を切り口にした助け合いの文化と仕組みを考えるサロン」を開催します。
長い名前ですが、「助け合いの文化と仕組み」をテーマにしたサロンは、これまでも何回かやってきました。
しかしなかなか継続化できませんでした。
そこで今回は、具体的な議論にしていくために、「協同組合」を切り口にすることにしました。

第1回は5月に開催しましたが、この時には協同組合の父と言われるライファイゼンと世界の農業協同組合事情に詳しい農林中央金庫の田中さんに話題提供してもらいました。
田中さんの思いは深いものがあり、長年、調査研究活動を重ねてきていますが、もう10年以上前にある研修会でお会いしたのが契機で付き合いが始まり、時々。私は刺激をもらっている人です。

今回は、最近また広がりが加速化されてきているワーカーズコープにずっと取り組んでいる菊地さんをゲストに、農業協同組合とはまた違った展開をしている「助け合いの文化と仕組み」を考えたいと思っています。
急な案内ですが、もしよかったらご参加ください。
とても気楽な集まりですので、どなたでも歓迎です。

○日時:2013年7月17日(金曜日)午後7~9時
   6時半には入場可能です。
○場所:湯島コンセプトワークショップ○話題提供者:菊地謙さん(ワーカーズコープちば)
○参加費:500円
○申し込み先:comcare@nifty.com

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2013/07/14

■節子への挽歌2126:挽歌がかけなかった2週間

挽歌を2週間近く休んでしまいました。
いくつかの事件が重なり、どうしても書けなくなってしまっていました。
挽歌を書くことで気持ちが平安になることが多いのですが、書くことで沈んでしまいそうになることもあるのです。
実は、この2週間ほど、改めて自分の生き方を反省し、悔いていました。
悔いたところで、何かが変わるわけではありませんが、悔いなければいけない時もあるのです。

昨日、節子の友達の雨森さんからメールが来ました。
節子のお姉さんが親元のお寺の観音様に毎年、お参りに行くのですが、今年も行ったようで、そこでみんなと話し合ったようです。
メールにはこうかいてありました。

しばらく唐川の仲間たちとも、下のテントで楽しく雑談をしました。
節子さんの挽歌が続いている事も話題になりました。
又機会あれば、途中下車して下さいね。
雨森さんは、この挽歌にも前に登場しているはずですが、節子の幼友達の間でも、挽歌を話題にしてくれているのです。

同じく昨日、もう一つメールが届きました。

佐藤修さま
毎日ブログを楽しみに読ませて頂いているので、佐藤さんのお名前がすらすらと出てきました(^_^.)
夫が自殺で亡くなった1年半前に初めて連絡をさせて頂いた、さいたま市に住んでいる・・・と申します。
まだお会いしたこともない人ですが、読んでくれているのだと知りました。
2週間近くも書いていないので、もしかしたら心配してくれているのかもしれません。
そして、今日、広島の人が電話してきました。
私の声を聞きたかったというのです。

まだ正直、挽歌を書きたくなる気分は出てきていないのですが、だからこそ書いたほうがいいような気がしてきました。
明日から、挽歌を再開します。

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■参議院選挙に思うこと10:現状満足の呪縛を抜け出せないものか

選挙まであと1週間です。
しかしなかなか盛り上がりません。投票率はかなり低くなりそうです。
要するに、多くの国民は現状に満足しているのでしょう。
満足していなければ、投票に行くはずです。
政治に関心がないとか、投票しても何も変わらないと思っているとか、言われますが、それはたぶん「現状満足」と同じ意味でしょう。
もし本当に不満ならば投票に行くはずですし、政治を変えようと本気で動くはずです。

私自身のことを考えてみましょう。
私自身は、現状への不満はありますし、政治を変えたいと思っています。
しかし、エジプトやシリアの国民とはまったく違い、不満を言いながらも現状を受け容れていることは否定できません。
原発を止めてほしいと思いますが、原発の前で焼身自殺をするほどには至っていません。
だから、このブログで時に過激なことを書いても、言葉だけと非難されても反論できません。
権力批判などサルでもできますから、そんな記事は何の力も持ちません。
あまりにも納得できないことを、書くことによって、自己を慰めているだけのことです。
要するに、私もまた、今の状況にほどほどの満足を感じていると言えるわけです。

しかし、私以上に満足している人のほうが多いように思います。
フェイスブックの書き込みを読んでいると、みんな現状に満足しているなと思います。
現状を告発したり行動を呼びかけたりする人もいますが、ほとんどの人は、蹴飛ばしたくなるくらい、平和な記事を書いています。
現状告発の情報を回してくる人もいますが(私も時にやります)、だからと言って、自らが行動を起こすわけではありません。
私が一番不愉快なのは、観察者的に批判したり、べき論を述べたりする人です。
一人称自動詞で語らずに、私の書いたことに解説してくれる人も不愉快ですが、そういう人も時にいます。
そういう人は、多分、権力を批判しやすい現在の社会を満喫しているのかもしれません。

要するに、みんな現状に満足しているのです。
だから消費税も上がり、TPPに参加し、原発依存を続け、犬のように働く生活を続けるわけです。
そして、茹でガエルのように、死んでいくのでしょう。
それもまた人生です。

しかし、人として死んで生きたいのであれば、どんなに忙しくても、誰に投票するかを真剣に考えて、投票に行くのがいいです。
でも、人よりも犬のほうがいいと、最近の人は思っているのでしょうね。
生き辛い時代です。

私は来世も人として生まれたいと思っていますので、今生は人として全うしたいです。

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2013/07/13

■参議院選挙に思うこと9:政党代表の話し合いテレビ番組を見ましょう

テレビでの選挙関連の報道の内容が、少しだけ変わってきているように思います。
少しまじめになってきたということです。
当初は政権翼賛会的な報道が多かったように思います。
とりわけ、いわゆる「政治評論家」たちは、論点をぼやかし、安倍政権にへつらっているように感じていました。
もちろん今もそうですが、各党の代表による討論会の内容は、進化しているように感じます。
国会での議論も、こういうスタイルでやればいいのにと思います。
現在の国会の議論は、議論とは言えません。
質疑応答とさえもいえないものが多いです。

また立候補者の政権放送もありますが、これもどのくらいの人が見るでしょうか。
もう少し工夫して欲しいものです。呆れるほど退屈です。

それにしても、なぜ与党政治家は嘘をつくのでしょうか。
民主党の政治家は与党時代には無知のために嘘をつきましたが、自民党の政治家は知っていて嘘をつきます。
政治家とは嘘つきだというイメージが少しずつ弱まっているようにも思いますが、相変わらず政権与党の政治家は嘘といわないまでもごまかしを乱発します。
今日の、みのもんたさんの番組で各党の代表がさまざまな問題を話し合っていましたが、与党の代表者の発言は、それは酷いものでした。
私にはあきらかに「嘘」としか思えません。
「内閣の考えと閣僚の考えは違うのか」と問われて、その人がしゃあしゃあと「違う」と答えて失笑を買っていました。
さすがに、野党の数名の人からも「ごまかし」とか「嘘」と指摘されていましたが、それがなければ視聴者は自民党の人の発言に納得したかもしれません。

これはほんの一例です。
街頭演説でも政見放送でもそうですが、話の内容は耳障りよく出来ています。
しかし、所属政党の主張とはかなり食い違っていることもあります。
その矛盾やごまかしは、一人の人の話を聞いていてもなかなか見えてきません。
ネットでの情報が増えていますが、それはさらに偏っています。
このブログの記事も、思い切り私の偏見ですから批判的に読まないといけません。

立候補者が、「・・・します」と断言するのも気になります。
どこかで発想を履き違えているように思えて、蹴飛ばしたくなります。

テレビで各党の代表者が話し合う番組はもっと増やしてほしいです。
問題が見えてくるからです。
この3連休は暑いですから、自宅で、ぜひそうした番組をできるだけ見たいと思います。
よかったら、みなさんもぜひそうしてみてください。
政治評論家の論調が、いかに観察者的で先入観に呪縛されているかが少しわかるかもしれません。

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2013/07/11

■参議院選挙に思うこと8:投票に関する私のルール

私は、時に共産党の候補に投票しようと思うことがありますが、最近は実際に投票したことはありません。
その理由は、瑣末といえば瑣末ですが、私にとっての重要なルールに従っているためです。
それは、選挙活動期間中に、自宅に直接電話があった候補者には絶対に投票しないというルールです。
このルールの良し悪しはともかく、ルールとして決めたので仕方ありません。

ルールはもう一つありましたが、それはもう守れなくなってきています。
地方議員と参議院議員は、政党所属の人には投票しないというルールです。
ある候補を応援したことがありますが、彼は結局、政党に所属し、今回は別の政党から出ます。
最初の当選時に、市民を代表するので、政党には所属しないといっていましたが、やはり政党に所属しなければやっていけなかったのでしょう。
以来、残念ですが、私は彼の応援を止めました。

ところで、直前の電話の件です。
昨日も、留守電に長々と入っていました。
共産党の立候補者の事務所の女性です。
最初にかかってきたのは数年前ですが、その時には市会議員の応援でした。
その時には、私はその共産党の新人に投票しようと思っていました。
それが投票日の前日に電話がありました。
いつもは「はい」とかわすのですが、その時はムッとして、この電話で投票をやめましたと応えました。
その一言がきっかけで、長電話になりました。
高年と思われる彼女は、以前は「共産党」と聞いただけで嫌悪したくらいだったそうですが、最近、時間が出来たのでいろいろと調べてみたら、共産党が一番共感できるので、共産党の人を応援しだしたのだそうです。
それはいいことですが、だからと言って、選挙の時だけ、共産党をよろしくではないでしょう、普段からそのよさをみんなに伝える活動をするほうがいいでしょう、と言うと、そういう集まりもあるのでぜひ参加してください、といわれました。
もっとも、その後、その種の案内は一度も来ていません。
その電話以来、選挙の時に懲りずに電話があります。
素直に考えれば、私が共産党の人に当選しないように仕向けているわけですが、本人は気づいていないでしょう。

頼んで投票に行ってもらったり、頼んである人に投票してもらうということの意味をしっかり考えなければいけません。
中途半端な政治意識の目覚めほどやっかいなものはありません。
そうではなく、自発的に投票に行き、だれかに投票することに喜びを感じるような状況を創らなければいけません。
私の場合は、そうなのですが、なぜ、そうではない人が多いのかが不思議です。
それは、もしかしたら、投票に行くのは国民の義務だという発想や投票に行こうという、余計なお世話の呼びかけのせいかもしれません。
おそらく、ここでも問題の建て方が間違っているのです。

ちなみに、私にはもう一つルールがあります。
自分の選挙なのに、政党の代表を呼ぶ人には投票しないと言うルールです。
このルールも守れなくなりました。誰にも投票できなくなるからです。

最近の選挙は、実に退屈です。
それに、私が思うような結果にはなかなかなりません。
しかし、4年前の政権交代のような事が起こりうるのです。
だから、今回もわくわくしながら投票に行きます。
投票する人はいま2人にしぼりました。

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2013/07/10

■ツイッターハガキ

私のところに、週、2~3回、ハガキをくれる人がいます。
毎回、それぞれに思いを込めた絵はがきで、古い記念切手で送ってきます。
とても几帳面な人なので、万年筆できちんと書いています。
インクの色は複数なので、たぶん万年筆も数種類を使い分けているのでしょう。
1日に2通、届いたこともあります。
内容は、いろいろですが、ツイッターハガキと言っていいような、いわゆる「つぶやき」です。

私もハガキにすればいいのですが、無粋なことに返信はメールです。
しかも、頻度においてはたぶん3回に1回くらいでしょうか。
ちなみに、その人は時々、メールも送ってきます。

その人は私よりもずっと若い人です。
私よりも年上の人から、手紙をもらうことは少なくないのですが、若い人からのハガキは、ほぼこの人だけです。
もうどのくらい続いているでしょうか。
最近は、数日来ないだけで、あれどうしたのかなと思うほどです。

以前、女房が絵手紙の交換を何人かとやっていました。
絵手紙も一種のつぶやきですので、どこか似ています。

メールの情報量とハガキの情報量はまったく違います。
ハガキの場合は、書かれている文字情報以外にもたくさんのメッセージが含まれています。
例えば、昨日届いたハガキは「鳩居堂製」のナスのハガキでした。
そこから来るメッセージもあります。
私だけにわかる特別のメッセージですが、そのメッセージを私が正しく受け止めているかどうかはわかりません。
しかし、私たちの間には、ある思いが往来しているのは事実です。

メールのやりとりは便利なために、私はどうもメールに依存しがちです。
しかし、その結果、何か大切なものをメッセージできていないのかもしれません。
それを感じたのは、実はフェイスブックをやりだしてからです。
メール以上に、フェイスブックは便利で、わがままになれます。
しかしもしかしたら、コミュニケーションというものを変質させてしまうのかもしれないという気がしだしました。

ちなみに、昨日とどいたハガキには、内田樹さんの「コミュニケーションは贈与である」という話が気になっていると書いてありました。
今日のハガキが楽しみです。

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■参議院選挙に思うこと7:今回は当選しそうな人に投票します

昨夜もテレビで党首討論会をやっていました。
途中まで見ましたが、あまりの内容のなさに見るのをやめてしまいました。
司会のまずさもありますが、話し合いになっていません。
それ以上に、野党側のバラバラさに辟易します。

ある意見に対する反論は決して「一つ」ではありません。
反対の視点は多様に存在するからです。
ですから与党に対して、野党は多数になりがちです。
それでは与党が有利なので、政権交代は起こりにくく、そのため二大政党制が考えられました。
しかし、前にも書きましたが、二大政党制度は形を変えた一大政党制なのです。
それはアメリカでは証明済みですが、日本でも民主党によって証明されました。
流れを変えようとした鳩山政権は、みごとに内部の反対で瓦解しました。
彼は、エジプトのムルシ大統領と同じく、国民ではないもうひとつの政権を支える権力に従う仲間に阻まれたように思います。
鳩山さんの友愛革命が成就していたら、世界は変わっていただろうと私は夢見ます。

しかし、いまはもうそれは期待しにくい状況です。
野党を結集する仕組みは見事に破られました。
そのため、せまい自己主張にこだわる小党や無所属での立候補が相変わらず多い状況です。
世論を喚起するには良いかもしれませんが、与党を利するだけで、国民の政治離れはさらに加速するかもしれません。
つまり、世論喚起さえできないかもしれません。
そうであれば、投票者が心しなければいけません。
無駄な死票にならないように、当選に繋がる人に投票することが必要な選挙かもしれません。

それにしても、なぜみんな立候補するのでしょうか。
自分の意見を社会に発信したいからでしょうか。
自分が思う政策を実現したからでしょうか。
それとも自分が議員になりたいからでしょうか。

自分が思う政策を実現したいのであれば、立候補を取りやめ、同じ意見の人の応援をするほうがいい場合もあります。
日本の選挙制度には、そうした仕組みがありません。
その仕組みが政党だったともいえますが、今の政党はそうではありません。
政党制度も大きく変わっていくべき時代です。
ネットの活用が進めば、今の政党制度は壊れるか大きく変質するか、いずれかでしょう。

立候補を取りやめてほしい人が少なくありませんが、彼らは自らの意図と行動が相反していることに気づいているのでしょうか。
あるいはあまりも渦中にいて、見えなくなっているのでしょうか。

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■福島第1原発の元所長の吉田さんが亡くなられました

福島第1原発の元所長の吉田さんが亡くなられました。
58歳。いかに無念だったことでしょうか。
深く冥福をお祈りします。
吉田さんがいなかったら、今の日本はなかったかもしれません。
いくら感謝しても足りません。
吉田さんの証言を書き残した「死の淵を見た男」の著者、門田さんは「戦死」と表現しています。

しかし、にもかかわらず、私には疑問が残ります。
なぜ事故の前に、吉田さんは事実をもっと明かさなかったのか。
そもそも、なぜ原発に関わっていたのか、です。
こんなことを書くと非難されるでしょうが、どうしてもその疑念が残ります。

吉田さんの「戦い」はさらに話題になり、映画にもなるかもしれません。
私自身、吉田さんの物語はそれに値すると思います。
しかし、それと同時に、それによって最も大切なことが見えなくなっていくのではないかという不安があります。

戦争や大災害といった非常時には、英雄が生まれます。
たぶん、どこにもっていっていいかわからないやり切れなさが、英雄を待望するのでしょう。
しかし、本当の英雄は、平常時にこそ生まれてほしいものです。
髙木仁三郎さんは、そうした存在だったように思いますが、英雄にはなりませんでした。
英雄になる意味は、情報発信力が飛躍的に高まるということです。
論理を超えて、あるメッセージが広がります。
理解ではなく共感が、世論を形成していきます。
髙木さんが英雄になったら、日本から原発はなくなっていたと思います。

吉田さんの物語は、どういうメッセージを形成していくでしょうか。
私が危惧するのは、原発の世界はこうした人たちによって、安全が守られているというメッセージです。
何か大切なことがすりかえられているように思えてなりません。
死の淵から世界を救うことよりも、死の淵を生み出すようなものを世界に持ち込まないことのほうが大切であることは、いうまでもありません。
しかし、そのこと(「原発の安全性」)はどこかにいってしまい、「運転の安全性」を守ることに多くの人の目がいってしまう。
どんなに安全に運転しようと、安全でないものは安全ではないのですが、そんな当然のことさえ、みんな忘れてしまいます。
そんななかで、吉田さんの行動の意味が、矮小化されてしまうような気がします。

事故後の吉田さんの行動には頭が下がります。
しかし、だからといって、事故前の原発の運転状況や情報発信が免責になるわけではありません。
もちろん吉田さんを責めているわけではありません。
原発を取り巻くシステムこそが問題なのです。
吉田さんでさえ、それができなかったのです。
吉田さんの行動や死は、そうしたことへの問題提起としてこそ、受け止めなければいけないのではないのか。

しかし残念ながら、東電のみならず、原発を取り巻く仕組みは何ひとつ変わっていません。
その象徴は原子力規制委員会の委員長に、田中さんが存在することです。
田中さんは、事故後いち早く、身を呈して除染活動に取り組みました。
しかし、だからといって、田中さんの何が変わったのか。
事故後、「変節」した人は少なくありませんが、変節はともかく、身の処し方はあるでしょう。
まさか田中さんが就任を受け容れるとは思ってもいませんでした。
その不安は、その後の規制委員会の行動に現れているように思います。

問題は個人ではなく、システムなのです。
テレビ報道を見ながら、とても複雑な気持ちになります。
吉田さんは、原発再稼動をどう考え、どう行動しようとしていたのでしょうか。

しかし、それがどうであろうと、吉田さんの行動には感謝します。
その行動を無駄にはしたくありません。
せめて今度の選挙での一票は、反原発の立場を誠実に示しているところに投じます。

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2013/07/09

■参議院選挙に思うこと6:投票率がなぜ低いのか

今回の参議院選挙の投票率は50%を切るかもしれないと言われだしています。
まさかそこまでは行かないとは思いますが、投票率が低下傾向にあることが気になります。
投票率が低いのは、選挙や政治への関心が低くなったということも含めて、今の選挙制度に起因しているはずです。
一票の格差の問題は大きな問題ですが、投票率の低さの原因をきちんと調べて、選挙制度を再設計することが大切だろうと思います。
もちろん、投票率という「数字」を高めると同時に、投票の質も高めていくことも必要です。

投票しても、結果に影響を与えられないと思っている人も多いですが、それもまた否定できない事実です。
当選後、所属政党を変えたり、政党そのものがマニフェストを破ったりしてきたことが、投票へのモティベーションを下げていることも否めません。
しかも党議拘束によって、国会議員は単なる「頭数」になっているような風潮もあります。
選挙では、人を選ぶのか政党を選ぶのか、わかりにくくなっていますが、最近の状況では人ではなく政党を選ぶようになってきています。
それでいいのかどうかも、きちんと考え直す時期でしょう。

選挙制度は政党制度と深くつながっています。
少なくとも30年ほど前までは、人を選ぶのが選挙でしたが、いつの間にか、政党を選ぶようになってきています。
政党に属していないと、所詮は泡沫候補として相手にもされません。
そうした動きは、民主主義の方向に逆行していると思いますが、そういう流れを受けて、いまや立候補者はタレント化してきています。
選挙に投票に行く意味が、私にも次第にわからなくなってきています。

もちろん民主主義を個人が実行できる唯一の機会が選挙ですから、選挙に行かないのは論外です。
しかし、正直に言えば、投票に行く時の虚しさもまた、年々高まっています。
政権交代したところで、結局は変わらないのであれば、投票所への足も重くなるでしょう。
それではしかし事態は変わりません。

どうしたら投票率を高めることができるのか。
その問題をもっと真剣に考えること大切です。

エジプトの若者たちの発言を聴いていて、とても感動します。
私たちがなくしてしまったものを、彼らは強く持っています。
政権交代してもまた元に戻されてしまう。
しかし、それでも命さえ懸けて、彼らは行動しています。
エジプトと日本はどこが違うのか。
権力は腐るとよくいわれますが、権利もまた腐っていくのでしょうか。

超党派で、投票率を高める方策を真剣に考えていってほしいものです。
そのなからきっと、現在の政治の根本的な問題点が見えてくるはずです。
投票率が低いのは、決して選挙民の問題ではありません。
選挙に行くことの意味をしっかりと実感させられない、政治家たちの問題です。
先日、投票率がある水準を超えなければ住民投票は無効というところがありましたが、投票率が70%を切るようであれば、選挙は無効というくらいのことはできないものでしょうか。
せめて、70%を超えるまで投票を締め切らないようにはできないのでしょか。
半分の人しか投票に行かない選挙って、どう考えても、私には納得はできません。

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■絶望的な無知無関心と選択的忘却能力

数日前の「エジプトで何が起こっているのか」の中で、紹介しましたが、藤永茂さんの『「闇の奥」の闇』(三交社)という本は、私には衝撃的でした。
藤永さんは、「闇の奥」という本の評価に関する論考を進めた結果、「そこに見えるものは、私たちの絶望的な無知無関心と、私たちが歴史的事実を選択的に忘却する恐るべき能力である」と書いています。
藤永さんの嘆きは、まさに昨今の日本で、繰り返されていることです。
フクシマ原発事故は、発生からいまだ2年少ししか経っていませんが、すでに忘れられつつあるようです。

原発再稼動の加速化は急速に進んでいるとしか思えません。
「原発の安全性」は、完全に原発の「運転の安全性」に、すりかえられてしまい、多くの人は相変わらずの「絶望的な無知無関心」へと逆戻りです。
テレビで、「再稼動しないと生活が出来ない」などと発言している人を見ると、悲しくなります。
いのちよりも暮らしが大切だということのおかしさにさえ、気づいていません。
雇われてお金をもらうことを、みんな「仕事」と思っているようですが、その考えを見直すことをフクシマの原発事故は教えてくれたのです。
しかし、そんなことはもう被災者以外の人たちは忘れてしまったようです。
自分だけがよければいいのでしょうか。
なんともはや情けない人たちばかりです。

もちろん、原発がすぐにすべてなくなるわけではありませんので、原発の運転の安全性は重要なことです。
しかし、それと再稼動や原発前提の経済成長は別の話です。

井戸から高濃度の放射性物質が検出されたニュースも報道されていますが、まあそれもまた「選択的忘却」の対象になるでしょう。
自分にとって都合に悪いことは関心を持たずに忘れてしまうのは、人の常です。
しかし、忘れていいことと忘れてはいけないことがある。
忘れてはならないことを、藤永さんのように書き残し、注意を喚起していくことにこそ、ジャーナリストの責務はあると思いますが、情報があふれかえるほどの昨今の過情報社会では、そうした情報はなかなか見えてきません。
注意しないと、都合よく加工された情報に振り回されてしまいます。

原発の再稼動を止めるにはどうしたらいいのか。
迂遠なようですが、今度の参議院選挙に反原発を心から主張している人や政党に投票するしかないでしょう。
投票したい人がいないなどという人に会うと、蹴飛ばしたくなります。

今度の選挙はとても重要な意味を持っていると思っています。
しかし、「絶望的な無知無関心」が広がっていて、投票率が危惧されているようです。
ぜひ周りの人に、その大切さを伝えようと思います。

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2013/07/08

■参議院選挙に思うこと5:なぜ野党は受け皿をつくれなかったのか

前回の選挙で、「死に票」の多さが問題にされました。
今回もまた、多くなりかねません。
投票するところがないので、仕方なく与党に投票する人もいるでしょうが、そういう人は白紙投票すべきだろうと思います。

私のすんでいる我孫子市の市長選挙の時に、関心がないから現職に投票したという若い人がいたのには驚きましたが、その一票は大きな意味を持っていることに、本人は気づいていないのです。

今の自民党は支持できないが、野党に入れても、政権との距離が大きすぎて、投票しても意味がない、と言う人もいます。
たしかに、野党は乱立しすぎていて、民主主義の考えに不慣れな日本国民には無意味な存在に見えるかもしれません。
小さな野党が、大きな流れを変えることもあるのですが、そうした展望を持っている人は少ないようです。
長いものに巻かれろ、寄らば大樹の陰、寄生的人生が、日本人の中にはあるようにさえ思います。
それを否定しても仕方がありません。
それこそ長い歴史の中で培われてきた文化ですから。

それを踏まえて考えれば、野党は国民の気分を大きく受け止める受け皿体制の構築に心がけてほしかったです。
滋賀県の嘉田さんが前回小沢さんと組んだ時には、その可能性を感じましたが、見事にマスコミに壊されました。
今回も、みどりの風が独自に立候補しましたが、自民党に利するだけでしょう。
その主張は、私は共感するところが多いですが、彼女たちは「死に票」を増やすだけかもしれません。
せめて、ゆるやかなネットワーク連合をつくってくれれば、投票しやすくなりますし、思いを集めていくことができるはずです。

選挙制度を支える人々の意識が変わってきている中で、選挙制度そのものも変えなければいけませんが、政党や立候補者の考えも変わらないといけないように思います。

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2013/07/07

■参議院選挙に思うこと4:あなたにピッタリな政党を診断

娘から、ヤフーのサイトに「ピッタリな政党を診断「参議院選挙2013」」というのがあると聞きました。
こういうのが、一番、選挙をだめにするものだと思っていますが、まあ知った以上はやりたくなるものです。
争点ごとに質問があり、それに答えていくと、私の回答との重なり度が、全ての政党および立候補者ごとにでてきます。
その結果は、まあ私が考えているものとほぼ一致しました。
しかし、だからといって、これを評価する気にはなりません。
この発想こそが、問題だと思うからです。

これは悪しき「科学主義」「客観主義」の仕組みです。
こういう仕組みで、みんな自ら考えることを捨ててきました。
科学者や客観主義者は、いずれも小さな世界で、論理整合性を考えているに過ぎません。
だから原爆さえ開発してしまうのです。
大切なのは、もっと「大きな」論理であり、整合性です。
要素ごとの回答を総和しても、全体が見えてくるわけではないのです。

たとえば、争点には、人によって優先付けがあるはずです。
原発問題と消費税問題とを同じウェイトで足して、何がわかるでしょうか。
そこには大きな落し穴があるのです。
生活は、様々な問題の総和で成り立っているのは事実ですが、要素ごとに同じ比重で総和されているわけではありませんし、問題の組み合わせで新しい選択肢が創発されることもあります。

今回、書きたかったのは、クイズを解くように正解を求める発想を若者に植え付ける風潮が、選挙にも広がりだしていることへの不安です。
選挙は、自分にとっての正解である立候補者に投票することではありません。
そんな正解者はいないと思うべきでしょう。
総花式のチェックリストで、投票者を選ぶのではなく、自分がいま最もこだわっていることに関して、共感する人を選ぶのが良いように思います。

さらにいえば、これだけは絶対避けたいと思うことがあれば、それ以外では完全に共感できたとしても、その点で考えが反対なら、投票対象からは除外するべきでしょう。
平均点や合計点で、評価する時代は、終わったのです。
そういう選挙もまた、見直すべき時期に来ていると思います。


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■参議院選挙に思うこと3:ねじれ国会がなぜ悪いのか

公明党の山口代表が、ねじれた紐を両手で持って、それを強く引っ張ってねじれを解消させるパフォーマンスをしていましたが、この人はまともな人なのかと不安になりました。
しかし、これは「人」の問題ではなく、選挙ということが、そういう行為を引き起こしてしまうのかもしれません。
おかしくなるのは立候補者側だけではありません。
それを見ていた聴衆が拍手をしているのを見て、娘が呆れていました。
その場にいると、人はここまでおかしくなるものなのでしょうか。

実は、娘も投票したい人がいないと嘆いている一人ですので、きちんと発言や資料を読めば、誰かいるはずだといっているのですが、与党の政党の代表がこのていたらくでは、あんまり強くもいえません。
まじめに耳を傾けようとする人を愚弄するような行為はやめてほしいものです。
愚弄されたら腹を立てるくらいの良識も、私たちは持ちたいものですが。

愚弄するといえば、テレビの政治番組で、争点が多すぎるので、ねじれ解消が大きなテーマになっているというような説明をしていました。
私には、これも選挙民を愚弄した発言としか思えません。
争点をしっかりと整理する苦労や責任を放棄して、ねじれが良いか悪いかなどということを論点にしてきたのは、マスコミと「有識者」です。
日本が二院制であるのは、慎重に事を決しようと言うことですし、衆参で多数派の政党が違うからと言って、それがそのまま「決まらない政治にはなりません。
ねじれが悪いという人は、議論する能力のない人でしょうから、もともと議員には向かないのです。
かなり荒っぽい書き方をしていますが、「ねじれ」があるから決定できないと言うのは、無能な議員や政党リーダーの無責任な発言を応援するために、これまた無責任なマスコミが創りあげた話でしょう。
議論とは、いろいろな意見をまとめ上げることなのです。

そもそも二大政党制というのは、支配者側にとって都合のいい制度です。
日本で導入した時に、きちんと反対したマスコミの論説委員はいたでしょうか。
導入後に反対した人は知っていますが、彼も導入前に反対してほしかったと思ったものでした。
アメリカがそうであるように、二大政党制は大きな意味では一党独裁と同じです。
単に看板を替えるだけです。
日本でも民主党と自民党は同じです。
いずれの飼い主も同じだと思えてなりません。

ちょっと品のない文章になってきました。
今回、言いたかったことは、ねじれ解消が、さも大切なことだというような論調に惑わされてはいけないということです。
ねじれなど気にせずに、大切な争点をしっかりと見すえたいものです。

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2013/07/06

■エジプトで何が起こっているのか

エジプト軍のクーデターに対する市民の抗議行動はますます拡大し、死者が増えています。

こんな文章を思い出しました。

R・J・ランメルの調査(1997)によれば国家は20世紀に1億3475万人の自国民を殺している。それは他国民を殺した6780万人を凌駕する数になる。万人のための万人による戦争状態を制圧し、平和に至らしめるために警察、制裁の権力や軍事力といった暴力を国民生活の安定のために正当に用いる国家を作るべきだとホッブスは述べた。このホッブスの国家観こそ近代国家を生み出す原動力となった。しかし実際には近代国家は万人による万人のための戦争状態こそおおよそ終結させ得たが、国家による暴力を防ぐことが出来ていない。(武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』)
エジプト軍は、「国家の中の国家」と言われるほどの存在ですが、軍隊出身でないムルシさんでは多分不都合があったのでしょう。

戦争がなくなれば、一番困るのは軍隊です。
世界の戦争を起こしているのは、現在では政府ではなく、アイゼンハワーが大統領を辞める時の演説で告発した通り、軍産複合体です。
もっと端的に言えば、産業界のリーダーたちと言ってもいいでしょう。
もちろん戦争に反対の経済人もいないわけではありませんが、そういう人は財界トップにはなってはいないでしょう。
経団連のトップたちの顔ぶれを見ればわかります。
エジプト軍は、経済活動も行っています。
まさに軍産複合体そのものなのです。
私たちは、マスコミの報道を信じがちですが、表層的な報道には慎重でありたいです。

最近、藤永茂さんの『「闇の奥」の奥』という本を読みました。
7年前に出版された本ですが、コンゴ自由国と植民地主義に関する本です。
ヒトラーによるユダヤ人虐殺よりもひどい虐殺の事実が忘れさられていることに我慢できず、藤永さんはこの本を書いたのでしょう。
最近読んだ本の中で、最も衝撃的な本でした。
そこに出てくる衝撃的な事実は、夢でうなされるほどです。
そうしたことを行っていたベルギー国王レオポルド2世は、当時、世界で最も高貴な君主とさえ言われていたのです。

エジプトで何が起こっているのか。
その真実が知りたいです。

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2013/07/05

■参議院選挙に思うこと2:投票したい人がいないという無責任さ

最近、無党派層が増えています。
それは政治意識の成熟の現れです。
そもそもすべての問題で、ある政党を支持するということ自体、ありえません。
課題によって、別の政党の主張に共感することは当然あって然るべきことです。
それは「代議制」を考える上で、極めて重要なことですが、昨今のように、党議拘束なる発想が当然視されるような状況の中では、党員以外、つまり党議に影響を与えられる人以外は、無党派層になるのは不思議なことではないでしょう。

しかし、投票する立候補者がいないというのは、おかしな言い分です。
自分と同じ意見の人などいるはずがありません。
自分の考えに近い人を、限られた選択肢の中から選ぶことです。
代議制とは、そういうことです。
逆に、自分が大切だと思っていることに関して、同じ意見を持つ政党や立候補者がいないということも、多分ないでしょう。
きちんと立候補者の意見や党の主張を調べたのでしょうか。
たぶん調べてはいないでしょう。
単に自らやるべきことを放棄して、言い訳をしているに過ぎません。
その言い訳が大義のように通ってしまうのは、みんなで渡ればこわくないと同じく、その言い訳を利用する人が増えているからでしょう。

私の選挙区の千葉では改選数3人に対して、9人が立候補しています。
少なくとも私が許容できる立候補者は3人はいます。
しかし、その3人や3人が属する政党の考えにすべて賛成ではありません。
全く反対のものもありますが、私が絶対に正しいわけではないので、これを機会に、その私の考えを改めて考え直そうと思っています。

つまり、選挙とは自らの考えも問い質す機会なのではないかとも思います。
もちろん問い質す前に、課題の気づきや課題を学ぶことも大切です。
昨日の朝日新聞に、56歳のコラムニストが、堂々と「僕が初めて投票したのは昨年の衆議院選です」と顔写真入りで語っていたのには驚きましたが、この人は、これまで学ぶことなく、社会に寄生してきたのでしょう。
私はそういう人にだけはなりたくないので、3人の中の誰がいいかを真剣に考えたいと思っています。
投票すべき立候補者がいないのは、立候補者側の問題ではなく、投票する自分の問題なのです。

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■参議院選挙に思うこと1:反原発だけが争点ではないのか

参議院選挙がスタートしました。
たぶん日本のこれからを決めていく重要な意味を持っている選挙でしょう。
これから数回にわたって、選挙戦の報道を見ながら感ずることを書いていこうと思います。

昨日、各党首の最初の演説があり、また党首討論会もありました。
そこでいささかがっかりだったのは、相変わらずアベノミクスがスターだったことです。

今回の選挙は争点が多すぎるとよく言われます。
しかし、争点が多いのはいつの選挙でも同じことです。
ただその時々の選挙にイニシアティブを持っている人やマスコミが争点を絞り込むことで、争点化がされるだけであって、今回の選挙がとりわけ争点が多いわけではありません。
ただ単に、みんなが「争点が多い」と思い込んでいるか、思いこまされているだけの話です。
そのほうが都合がいいと思っている人がいるからです。
マスコミや識者やテレビキャスターは、多分みんなそう思っています。

あえていえば、今回の選挙では「経済成長」「憲法改正」「原発」が大きな争点だろうと私は思いますが、最初の党首の該当での呼びかけでは、ほとんどが「経済成長」が中心でした。
原発にきちんと触れたのは、9人の党首のうち、みんなの党、共産党、社民党、みどりの風くらいでした。
これは意外でした。

上記の3つの争点のうち、ひとつだけといわれれば、みなさんはどれを選ぶでしょうか。
私はちゅうちょなく、原発を選びます。
3・11を経験した人であれば、当然そうだろうと思っていたのですが、どうもそうではないようです。
ほとんどの人はもう原発事故は起こらないと思っているのでしょうか。
どんなに経済的に発展しても、原発事故が起こったら、すべては無に帰します。
幸か不幸か、今回のフクシマ原発事故は、いろんな形でカバーされたように見えますが、次はそうはならないかもしれません。
それだけではありません。
フクシマ事故の影響は、見えない形でじわじわとの日本の国土と日本人の生命を蝕んでいます。
その事実は、今は隠しおおせても、次第に明らかになっていくでしょう。
その時にはいまの原発再稼動を決めた人たちはいないかもしれませんが。
しかし、私たちの責任はなくなるわけではありません。

健やかに生きることと物質的に豊かな暮らしをすることとどちらを選ぶか。
それは人によって違うかもしれません。
いまの日本は、後者が圧倒的に多いようです。
そうでなければ、「反原発」の一点に焦点を当てて、選挙できるはずですが、前回の選挙で明らかになったように、それは日本人には通用しないようです。
まさにお金や経済成長の道具になってしまったようにさえ思われます。

そう点はたくさんありますが、いま何が一番大切なのかは決められます。
お金のためではなく、いのちのために、私はそれが何かを決めたいと思います。
私には、争点はひとつ。脱原発を基軸にするかどうかです。
脱原発を基軸に置けば、ほかの問題も解けてきます。

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2013/07/02

■節子への挽歌2125:寄生的人生だったかもしれません

節子
久しぶりに大阪に向かっています。
いま名古屋を過ぎたところです。
間もなく米原。思いのつまった駅ですが、最近は通過だけです。
節子のお姉さんが敦賀にいて、ちょうど先週、退院したところなので、お見舞いに寄ろうかと思ってもいましたが、逆に迷惑をかけそうなので、今回は止めまた。
節子の7回忌を8月に行う予定ですが、治っているといいのですが。

最近は新幹線に乗る機会もすっかり減りました。
会社にいたころは、毎週のように東京と大阪を往き来していたこともありますが、今は年に数回です。
新幹線に乗っていつも思うのは、日本の緑の多さです。
東海道新幹線でさえそうですので、他の新幹線はもっとそう感じます。
こんなに緑が多いのに、みんななぜ首都圏に集まるのでしょうか。
この歳になると、緑の中で暮らしたいと思います。
しかし、私のように生活力のない者は、やりたくてもできそうもありません。
節子がいなくなって、終の住処まで変わってしまいました。

男性と女性とは、私には別の生物のように感じています。
生活力が全く違います。
男性は、女性に寄生していないと生きていけないのではないかと、私は思うのですが、これは私だけのことかもしれません。
寄生的に生きていると、宿主がいなくなるともうやっていけません。

いま同居している娘が、私にもう少し生活面で自立できるようにしたらと時々いいますが、いまさら自立することもないでしょう。
寄生者は宿主と一緒に滅びるのが自然です。

ちなみに、わが家の老犬のチビ太くんは、いまは寝たきりで、私たちが介護しなければ、食事も排泄もできません。
もし飼い犬でなければ死んでいるでしょう。
そのチビ太の世話をしながら、私ももしかしたらチビ太と同じく、もう死んでいてもおかしくないなと時々思います。

自然に生きるとは自然に死ぬことでもあります。
チビ太はいま幸せでしょうか。
いろいろと思うことが多いです。

もうじき大阪です。

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2013/07/01

■節子への挽歌2124:弔問はやはりきびしいです

節子
野原さんのご自宅に行って、野原さんの霊前に線香をあげさせてもらってきました。
奥様から野原さんのことをお聞きしました。
野原さんらしい、思っていた通りの旅立ちでした。
息を引き取る直前まで、仕事をしていたようです。
心残りはあったでしょうが、とても充実した人生だったことでしょう。

私の知らない話もいろいろとお聞きしました。
それにしても、野原さんとはなぜ知り合ったのでしょうか。
昨日まで思い出せなかったのですが、いろいろとお話して思い出しました。
野原さんがあるリサーチ会社にいた時に、私がそこのプロジェクトに関わったのが契機でした。
しかし、仕事はご一緒したことがありません。
だから、なぜ付き合いが始まったのか、やはりわからないままです。

野原さんの会社には、少しだけ関わったことがあります。
しかし、実は野原さんとは仕事上の付き合いはほとんどないのです。
にもかかわらず、なぜか野原さんは時々湯島に来て、話をして帰りました。
考えてみると、それも不思議な話です。
発病後、4年間、10回を上回る入退院を繰り返したそうです。
しかも病気を公表せずに、仕事を続けたのです。
これもまた野原さんらしい。

しかし、残されたほうは大変です。
私ですら大変だったのですから、野原さんの場合は、それを数倍上回るでしょう。
先に逝った方がいいですよね、とつい口に出してしまいました。
奥様も、即座にそうですよ、と応えました。
早く逝くのは、本当にずるいの一言です。

闘病や手術、残された時間の夫婦での過ごし方、いろいろと話がでましたが、やはりどうしてもまた私も思い出してしまいます、
そして、やはりいつもの後悔が首をもたげます。
節子にもっとやってやるべきことがあったと。
なぜ最後の最後まで、節子が治ると確信していたのでしょうか。
治ったら節子と一緒に、と思っていた、自らの能天気さに、いつものことながら、腹が立ちます。

帰宅後、節子に報告した後、異常に疲れを感じました。

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