■節子への挽歌2138:死の疑似体験ワークショップ
節子
本で知ったのですが、死の疑似体験ワークショップというのがあります。
死生学を専門にされている関西学院大学の藤井美和教授がやっているそうです。
そのワークショップの一つに、自分にとって一番大切なものは何かを考えていくプログラムがあります。
進め方はこうです。
まず、参加者に、「形のある大切なもの」「大切な活動」「大切な人」「形のない大切なもの」の4つの領域から自分にとっての大切なものを3つずつ選んで、12枚の紙に書いてもらうことから始めます。
そして、若くしてがんで亡くなった学生の手記を読みながら、あるステージごとに、その学生の立場になって、何をあきらめるのかを決めて、その紙を捨てていくのだそうです。
入院した時に3枚、手術する時に3枚、病気ががんであるとわかった時、にまた3枚と捨てていくわけです。
多くの場合、まず、形あるものから消えていくそうです。
最後に残るのは、形のないもの、たとえば「愛」です。
最初、このワークショップのことを知った時には、正直、違和感がありました。
「死の疑似体験」という表現にも抵抗がありました。
理由は自分でもよくわかりませんが、ともかく違和感がありました。
死とは、何か「大切なもの」を捨てなければいけないものなのかというのも、私のイメージとは違います。
それに、そんなプロセスを通さなくても、私には最後に残るものは明白だからです。
節子はどうだったでしょうか。
節子ではないので確実とはいえませんが、そもそも「選択」などはしなかったと思います。
すべてが大切だった。
節子にとっては、節子が生きてきた人生すべてが、同じように大切だったでしょう。
死を前にしたら、おそらくすべてのものの価値は同じくなるのではないかと思います。
いや、別に死を前にしなくも、人にとって大切なのはひとつには絞り込めません。
にもかかわらず、私たちは「何か」に執着し呪縛されます。
それが金銭のこともあれば世間からの評判のこともあれば、愛する特定の人であることもあります。
藤井さんのワークショップは、そのことに気づかせてくれるかもしれません。
その意味では、大きな意味があります。
私には違和感はありますが、そのワークショップ自体の効用はよくわかります。
節子の最後の1か月は、厳しいものでした。
ですから節子とゆっくりと話すこともできませんでした。
この厳しさを乗り越えたら、また話せるという思いが私にはありました。
節子も私も、娘たちも、一生懸命に生きました。
何が大切かなどは考えることなく、ただただ節子が元気になることがみんなの唯一の思いでした。
そんな体験があるので、このワークショップに違和感があるのです。
また、あの悪夢のような暑い夏がやってきます。
私にとって、一番大切なものは、節子との暮らしです。
それを守れなかったことの無念さは、この時期、特に大きくなってきます。
暑さがこたえます。
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