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2013/07/22

■節子への挽歌2136:「人は死ぬと無になってしまう」のか

節子
先日、この挽歌にコメントを下さった方から、メールが届きました。

大切な人を亡くした人は、その存在を感じている人がいると思うのに、
私は、その存在を感じずに、「人は死ぬと無になってしまう」と考えてしまっています。
前後を切り離しての引用ですので、その方の思いを正確には引用していませんが、私自身は、「人は死ぬと無になってしまう」とは思っていません。

今日、テレビで「地球千年紀行」とい+う番組を見ました。
毎月1回放映されている番組で、東大名誉教授の月尾さんが、世界の先住民族たちの文化や暮らしを紹介してくれる番組です。
今日は、インドネシアのトラジャ族の話でした。
おそらく数千年前にトラジャ族は船に乗って日本にもやってきて、原日本人の文化にも影響を与えただろうと思うほど、親しみのもてる人たちです。
それはそれとして、トラジャ族の葬儀は盛大です。
彼らは、人の死を病にかかった肉体から自由になって、旅立つことだと考えています。
だから、葬儀は旅立ちの儀式です。
つまり、人は死んではいないのです。

最近、老化により、肉体の制約を感ずることがあります。
疲れやすく無理がきかない。
そうした自分の肉体を、いまいましく思う自分といたわろうとする自分がいます。
そういう状況では、自分の肉体は、いわば自分のものであって、自分のものでないのです。
肉体とは別の自分が、まちがいなくいます。
だとしたら、肉体が死んでも、自分がいてもおかしくない。
そういう思いが、最近特に強まっています。

たしかに、肉体がないと自分を表現することができません。
しかし、表現しないからといって、思いがないわけではない。
肉体がないからと言って、自分がいないとは言い切れない。
少なくとも、肉体が自分のすべてだと思っている人はいないでしょう。
自分が望まないのに、肉体が動き出すことを体験されたことはないでしょうか。
肉体と自分とは、別の存在なのです。

とても粗雑な説明ですが、最近そういう思いが強いのです。
「死ぬ」とは、要するに肉体が機能不全を起こし、生体であることを維持できなくなるだけの話です。
つまり、肉体が死ぬのであって、人が死ぬのではない。
トラジャ族の人たちが考えているように、肉体の死は、人としての次に段階に移ることかもしれません。
もしそうなら、死は誕生にもつながっていきます。
なにやらややこしい話ですが、最近、そんな風に思えるようになってきました。
死は誕生なのだと。

ところで、メールをくださった方が、「愛した人の存在が感じられない」というのは、愛する人が自らの中にいるからではないかと思います。
宿っていた肉体がなくなったら、あなたならどこに行きますか。
私なら、愛する人の肉体に、とりあえずははいりこみたい。
つまり、あまりに身近すぎて、実感できないのです。
しかし、そのうち、感じられるようになるでしょう。
私が、そうでしたから。

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