■決められる政治の意味
国会のねじれが解消されて、これからは「決められる政治」が到来するといわれています。
しかし、肝心の「決められる」とはどういうことかの議論はありません。
決められなかったのが、ねじれのためだったとマスコミはさかんに言っていましたが、マスコミは大政翼賛会的な方向づけに加担していただけです。
「決める主語」に関しては、関心はあまりないでしょう。
たしかにこれからは、政府はどんどん決めていけます。
反対勢力は弱小になったからです。
原発再稼動もいまや簡単な話です。
誰に気兼ねすることもないからです。
消費税も上げられるでしょうし、大企業減税も出来るでしょう。
言論の自由を制限することも、憲法を変えることも出来るかもしれません。
なにしろ国民は「(政府が勝手に)決められる政治」を望んでいるからです。
私には狂気の沙汰です。
最近の政治が決められないのは、生活に立脚していない、無理なことを決めようとしているからではないかと、私は思います。
いろんな利害を紛れ込まそうとしていることもあるでしょう。
あるいは国民の考えがまとまっていないからかもしれません。
国民の意見がばらばらなのは、価値観の違いもありますが、情報が共有されていない事が大きいように思います。
これにはマスコミの報道の仕方に問題を感じます。
いずれにしろ、決して国会のねじれだけが問題ではないでしょう。
そもそも、国会のねじれで決まらないようなことは、急いで決めなくてもよいのではないかと思います。
民俗学者の宮本常一の「忘れられた日本人」と言う本があります。
そこに収録されている『対馬にて』に、有名な寄り合いの話が出てきます。
時間をかけて、みんなが納得できる結論を出していくという、日本的な民主主義の文化として、よく取り上げられる話です。
そこではだれも、急いで決めようなどとはしません。
話し合いの過程をともかく大切にするのです。
相手を説得しようという話し合いではなく、みずからの世界を豊かにしていく話し合いです。
そういう文化を、私たちは忘れてしまいました。
昨日、「生活を忘れた日本人」というのを書きましたが、私たちが忘れてしまったのは生活ではなく、日本の文化かもしれません。
だからTPPもみんな受け容れられるのでしょう。
TPPを受け容れることは、日本人であリつづけられなくなることだろうと私には思われますが、それを嘆く人は、そう多くないのかもしれません。
しかし、私は、日本人であることをこれからも大事にしたいと思っています。
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