■節子への挽歌2124:弔問はやはりきびしいです
節子
野原さんのご自宅に行って、野原さんの霊前に線香をあげさせてもらってきました。
奥様から野原さんのことをお聞きしました。
野原さんらしい、思っていた通りの旅立ちでした。
息を引き取る直前まで、仕事をしていたようです。
心残りはあったでしょうが、とても充実した人生だったことでしょう。
私の知らない話もいろいろとお聞きしました。
それにしても、野原さんとはなぜ知り合ったのでしょうか。
昨日まで思い出せなかったのですが、いろいろとお話して思い出しました。
野原さんがあるリサーチ会社にいた時に、私がそこのプロジェクトに関わったのが契機でした。
しかし、仕事はご一緒したことがありません。
だから、なぜ付き合いが始まったのか、やはりわからないままです。
野原さんの会社には、少しだけ関わったことがあります。
しかし、実は野原さんとは仕事上の付き合いはほとんどないのです。
にもかかわらず、なぜか野原さんは時々湯島に来て、話をして帰りました。
考えてみると、それも不思議な話です。
発病後、4年間、10回を上回る入退院を繰り返したそうです。
しかも病気を公表せずに、仕事を続けたのです。
これもまた野原さんらしい。
しかし、残されたほうは大変です。
私ですら大変だったのですから、野原さんの場合は、それを数倍上回るでしょう。
先に逝った方がいいですよね、とつい口に出してしまいました。
奥様も、即座にそうですよ、と応えました。
早く逝くのは、本当にずるいの一言です。
闘病や手術、残された時間の夫婦での過ごし方、いろいろと話がでましたが、やはりどうしてもまた私も思い出してしまいます、
そして、やはりいつもの後悔が首をもたげます。
節子にもっとやってやるべきことがあったと。
なぜ最後の最後まで、節子が治ると確信していたのでしょうか。
治ったら節子と一緒に、と思っていた、自らの能天気さに、いつものことながら、腹が立ちます。
帰宅後、節子に報告した後、異常に疲れを感じました。
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