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2013/07/16

■節子への挽歌2130:自らの不誠実さへの慙愧の念

お天道様が見ている話の、その2です。
昨日、この挽歌にコメントが寄せられました。
まったく知らない人からのコメントです。
コメントを再掲させてもらいます。

一昨年の暮れに父を亡くし、その後節子さんへの挽歌を読ませていただいています。
ほぼ毎日PCを開くとたくさんある中のどれかを読んでいます。
このところ更新がなかったので、どうかなさったのかと勝手に思っていました。
おとといは、「小さな村の物語」を見ながら、その時も佐藤さんはみているかな?と思ってました。
今日更新があったので、ついメールしてしまいました。
これからも、節子さんへの挽歌を楽しみにしています。
毎日書かれていた挽歌が書かれていないと、どうかしたのかと思われるのは当然です。
もちろん「どうかした」のですが、それを書かないのも、読んで下さっている人には失礼なことかもしれません。
「書く」のが目的の挽歌であっても、私だけの都合で勝手にやめてはいけません。
それは、私の生き方に反します。
節子はそのことをよく知っていました。
一度、口に出したことは守らなければいけません。
毎日書くといったのであれば、書かなければいけない。

今月になって、挽歌が書けなくなったのは、もちろん理由があります。
節子の看病への後悔、節子との一緒の暮らしへの反省、そうしたことが山のように心身に降り注いできたのです。
慙愧の念が降り注ぐようになったのは、今月に入ってからの、知人友人との話と体験からです。
自分の生き方の不誠実さを思い知らされたのです。
私がもう少し誠実だったら、節子は治ったかもしれない。
いや、発病さえしなかったのではないか。
そうした思いが、また私の心身を落としてしまったのです。
それで、挽歌が書けなくなりました。
書くことで、不誠実さを糊塗するような気がしだしたのです。
「おととい」の「小さな村の物語」も見ませんでした。
あの番組に出てくる人は、みんなとても誠実に生きているからです。
自己嫌悪に襲われるのです。

愛する人を失った人は、どんな小さなことにでも傷つけられる。
そして、どんな小さなことでも、時に動けなくなる。
でもそれに甘んじるのも、誠実ではないかもしれません。
私に欠落していたのは「誠実さ」かもしれません。
節子がいたからこそ、私が誠実に見えていたのかもしれません。
最近、娘から、そのことを気づかされています。

話が少しそれてしまいましたが、大石さん、心配をかけてすみませんでした。
今度また書けなくなったら、その旨を予告することにします。
予告なしに挽歌の更新が暫くなくなったら、それは「突然死」ですね。
ちなみに、あと3年は「突然死」できない理由があるので、大丈夫でしょう。
何しろ、お天道様はちゃんと見てくれているでしょうし。

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