■節子への挽歌2143:経験したことのない大雨
節子
雨です。
今日は湯島に来ていますが、家を出る直前ににわかに空が真っ黒になり、大粒の前が降ってきました。
最近増えているシャワーのような短時間の雨ですが、それが各地に被害を与えています。
気象庁は「経験したことのない大雨」と警告していました。
わが家は傾斜地の造成地の上に建っています。
ですから、こうした大雨に襲われたら、どうなるかわかりません。
事実、そうした被害を受けているところがテレビで時々映されます。
とんでもないところが水流で大きく崩され、土砂に埋まってしまう状況をテレビで見ることは最近は少なくありません。
いつわが家に起こっても不思議ではないのですが、自分の身に実際に起きないとなかなか自分の問題とは思えないものです。
だから「想定」もしないのです。
経験したことのないことを経験するのは、ある意味で善悪を超えています。
何しろ経験したことがないので、評価できないからです。
しかし多くの場合、それはできれば「経験したくないこと」であることが多いでしょう。
大雨の場合はそうしたものの一つです。
だから「経験したことのない」とは「経験したくない」と同義語であることが多いでしょう。その警告を耳にしたら、多くの人は避けたいと本能的に思うでしょう。
その意味では、効果のある表現です。
伴侶との死別も、多くの場合は「経験したことのないこと」です。
私の場合もそうでした。
だからどう対処していいかわかりません。
いや「理解できない」のです。
そのことに比べれば、たとえどんな大雨であろうと「経験」の延長で考えられます。
原発事故の時も、当事者たちは盛んに「想定外」という言葉を使っていました。
しかし、原発事故に関して言えば、想定外などという言葉は誠実ではありません。
想定したくなかっただけなのです。
自然災害もそうかもしれません。
伴侶の死はどうでしょうか。
たしかに「経験したことがないこと」ですが、「想定外」ではありえません。
想定しなかったのは、要するに、想定したくなかったからです。
経験したことのない大雨も伴侶との死別も、要するに経験したくないことなのです。
しかし、両者はまったく違います。
前者は経験せずにすませることもありますが、後者は避けられないことです。
後者を経験せずにすませることはできないものでしょうか。
それをもっと早く考えていくべきでした。
経験したことのないほどの大雨の被害も大きいですが、経験したことのない伴侶の死も、なかなか立ち直れないほどに大きいものです。
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