■節子への挽歌2138:時機純熟の真教
節子
節子の生家は浄土真宗でした。
法事の時に、よく親鸞の話が出てきました。
親鸞は、浄土真宗は「時機純熟の真教」だと言っているそうです。
然るべき時が来たら、世界が見えてくるということでしょうか。
私の解釈では、彼岸も含めて、古今東西の世界が見えてくるということです。
大きな生命が見えているといってもいいかもしれません。
まあこれは、勝手な私の解釈です。
親鸞はまた、迷いの中に真実を見る人だったようです。
空海とは違います。
空海が彼岸の人なら、親鸞は此岸の人です。
節子の生家は、滋賀県の高月町というところですが、この周辺には、親鸞と空海の振興が篤いようです。
節子がいなくなって6年近くになりますが、最近、彼岸が少し見えてくるような気がしています。
見える、と言うよりも、感ずると言ったほうが適切かもしれません。
如来とは、「如」が「来る」、つまり、本来の真実の姿(如)に「帰る」ということでもあるそうです。
信仰を重ね、時が来れば、如来となる。
実に納得できる話です。
素直な心で考えると、仏教の説話や教えにはうなづくことが多いのです。
毎朝、時には省略版ですが、大日如来を拝みながら、般若心経をあげています。
そのおかげかもしれません。
最近、なにか世界のすべてを感じられるような気がすることがあるのです。
世界が見えると、少し安堵します。
祈りは心を和ませます。
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