■節子への挽歌2133:ほんのわずかなものとほんのわずかなこと
節子
人が幸せであるためには、ほんのわずかなものとほんのわずかなことがあればいいのですが、皮肉なことに、そのことに気づくのは、それを失った時なのです。
ということは、人は本来、幸せなのだということかもしれません。
生きていることが幸せなのです。
しかし、ある時、あまり意識していなかった「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」が失われてしまうと、幸せの世界から追い出されてしまうわけです。
「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」。
私の場合は、何の華やかさもない節子との日常の暮らしでした。
それが失われてからは、私には幸せはなくなってしまいました。
一昨年の東日本大震災や原発事故で、なんでもない日常の暮らしを失ってしまった人たちは、たぶん、幸せとは縁遠い世界に追いやられたと思いますが、同時に、それまでの幸せにも気づいたことでしょう。
幸せとは、気づいた時には、もうないのです。
実に皮肉な話です。
被災者のみなさんが、一番欲しいのは、「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」でしょう。
でもそれは、もう手には入りません。
「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」と書きましたが、実は「わずかな」ではないのです。
その「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」は、常にあるからから「わずか」な存在になっていますが、自分を包み込むほどに、時空間を超えて、存在しています。
たとえば「空気」や「水」がそうです。
意識しないですむほどに、その「わずかなものやこと」は、日常の暮らしに充満しているのです。
充満しているが故に、その大切さに気づかない、
そんな「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」は、私の場合、節子以外にもきっとあるのでしょう。
でも、節子がそうであったように、それもまたなくなってみないと、わからないわけです。
節子は発病後、一日一日を大事に生きていました。
今日も良い一日だった、明日も今日のようにありますように、と寝る前に祈っていました。
節子は、「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」の大切さを知っていたのです。
だから、私よりも幸せだったのかもしれません。
それに、節子には私がいましたし。
節子は最後まで幸せだった。
そう思うと、少し心がやすまります。
しかし、私はこれからずっと不幸せなのかと思うと、心はやすまりません。
幸せについて考えることはほとんど意味はありませんが、時々、ふと、考えてしまいます。
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