■節子への挽歌2184:送られ人
節子
今年の夏は、節子の夏でした。
お盆から始まり、七回忌、そして来週は節子の命日です。
わが家では、節子行事が山積みでした。
送られ人は幸せです。
七回忌に来てくれた人全員で、お墓で写真を撮りました。
その後、ついつい「次回は私はいないかもしれないし」と言ってしまいました。
年齢的には私が若い方なのですが、伴侶を見送ったのは私だけです。
これはかなり影響するでしょう。
伴侶がいれば、お互いに元気づけあいながら、長生きしやすいはずです。
伴侶を失った人の余命について、男性は特に短いという話を、聞いた記憶があります。
私も、そろそろ「送られ人」の適齢期に近づいているかもしれません。
「送る人」と「送られる人」。
自分で体験するまでは、送られる人のほうが不幸だという気がしていましたが、いまは反対だと思っています。
節子と私を比べたら、私のほうが不幸でしょう。
死は決して不幸なことではないと、友人の一条真也さんは書いていますが、死が周りの人を不幸にすることは否定できません。
その不幸が、どれほどのものであるかは、体験しないとわかりません。
しかも、それは人によって違うでしょう。
死が、周りの人を幸せにすることもあるでしょう。
ですから、こうした話は、一般論で語るべきことではないのです。
いずれにしろ、私はいつか「送られ人」になるでしょう。
その時に、できれば周りを不幸にしたくないと思います。
「送る人」と「送られる人」も、不幸にならない旅立ちとは、どんなものでしょうか。
少し考えてみようと思います。
節子は、いろんな課題を与えてくれます。
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