■特別な時間が積み重なった場所を捨てる覚悟
昨日、福島で仕事をしている友人に会いました。
その人に会うと必ず出るのが福島が今後どうなるかの話題です。
その人は放射線汚染の危険性をずっと唱えている人で、湯島でもその人の話を聞く集まりを2回やっています。
私自身も、いわゆるホットスポットと言われる我孫子に住んでいますので、よくわかるのですが、放射線で汚染されていようと自分が住んでいる地域には深い愛着があります。
だから当事者としては、そこに住めなくなるということは、聞きたくない話です。
しかし、当事者としてではなく、子孫という観点から考えると、それではいけないでしょう。
情を捨てて考えると、福島はもはや人が住める地域ではなくなったように思います。
除染活動が行われていますが、常識的に考えて、ひとたび広範囲に汚染された地域を除染することなど不可能です。
にもかかわらず、住民を安心されるために、あまり効果があるとは思えない除染活動デモンストレーションが行われているような気がします。
その一方で、福島原発まわりの危険な状況はあまり変わっていません。
汚染水の海への流出などが、いまなお問題になること自体、そのことの現れです。
私には、専門家たちは、問題を解決できないことを知っているように思えます。
にもかかわらず決断を先延ばしし、被害をじわじわと広げている。
これは犯罪以外のなにものでもありません。
東電という会社の問題ではなく、政治が決断を下すべき問題ですが、責任は一会社にすぎない東電に背負わされています。
東電もおそらく解決できないことを知っているので、本気になれないのかもしれません。
記者会見を見ていても、本気さはまったく感じられません。
みんな、自らが属する組織や自らの保全しか考えていないのです。
そして事実が見えないように、あるいは見ないように、情報が隠蔽されています。
隠すだけの隠蔽ではなく、見たくない結果からの隠蔽も広がっているように思います。
私は、福島を中心にした汚染地域は国家が買い取り、人の住まないままに放置する地域にするしかないと思っています。
そこに汚染物質は集中し、禁断の地にするしかないでしょう。
それ以外の未来はないように思います。
福島の住民たちにとっては、厳しいことですが、長い目で見れば、それが一番、住民たちのためになるように思います。
昨日話した人も賛成でしたが、その人は、地域を守るよりも住民を守る発想が行政の首長にはないのですよ、といいました。
まったく同感です。
大切なのは、組織や土地ではなく、いのちです。
手段と目的を間違ってはいけません。
飯舘村の菅野村長の話も出ました。
にもかかわらず、土地の持つ意味は大きいです。
観光客にとっては、単なる風景でしょうが、そこに住む人にとっては、暮らしやいのちに深くつながっています。
しかも、先祖の人々の営みも含めて。そこには表情のある「特別の意味」を持った時間が積み重なっています。
つまり、私たちが住んでいる地域は、単なる空間ではなく、長い歴史的な時間が折り重なるように織り込まれた時間の集積でもあるのです。
だから、そう簡単には離れられないのです。
そう考えると、福島を捨てることの辛さがとてつもなく大きいことがわかります。
にもかかわらず、そこを捨てなければ、子どもたちの未来が守れないかもしれません。
これまで培ってきた時間をとるか、これから広がっていく未来の時間をとるか。
こう考えれば、判断は簡単です。
問題を起こしてしまった世代が、その苦難を引き受けなければいけません。
一刻も早く、福島は「廃県」し、人の入り込めない自然林にし、そのできるだけ中央に、私たちが生み出した放射線汚染物質を隔離するしか方法はないように思います。
当事者でないものの、無責任な意見かもしれませんが、私が住んでいる地域も、いつ、「廃県」の対象になるかもしれません。
原発を維持するとは、そういうことだと、私は思っています。
その覚悟もなく、原発再稼動に加担している人が、私には理解できません。
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