■節子への挽歌2149:チビ太がいない
節子
今日も、朝、チビ太が気になっては役目が覚めました。
そして、ああ、そうだ、今日はチビ太はいないのだと気づきました。
いつもチビ太が寝ているリビングにいったら、やはりそこにはチビ太はいませんでした。
当然にことなのですが、やはり実際に体験しないと実感できないのです。
チビ太のいない、いつもとはちがったリビングに行って、急に胸が締め付けられるような悲しみを覚えました。
昨日はあまり感じなかったのですが。
こうして、だんだんと別れの実感が高まってくるのでしょう。
人の意識と表情は必ずしも一致していません。
昨日、火葬場から戻った時に、娘から言われました。
お父さんも「目を真っ赤にしていたね」と。
私の意識では、そんなことはまったくなく、あまり感情を感じていなかったのですが、身体には素直に出るものかもしれません。
それが心に入りこんでくるまでには、時間がかかるのです。
チビ太がいないので、食事や排泄などの世話が不要になりました。
結構それが大変でしたが、同時にそれはまた、自らが癒される時間でもあったわけです。
その時間がなくなってしまいました。
楽になったのは事実ですが、代わりに失うものもあるようです。
この挽歌を読んだ方が、早速、メールをくださっていました。
チビ太くんは佐藤さんと一緒に暮らせてきっと幸せだったでしょう。この方も、15年ほど前に、子どものように育てていたラブラドールを亡くされたそうです。
天寿を全うしたのだと思います。
一緒に暮らしていた「いのち」の死は、時間をかけて、心に入り込んできます。
今年は、また例年よりも辛い夏になりそうです。
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