■節子への挽歌2157:介護を家族に期待するか
節子
大学でも福祉を教えながら福祉関係のNPO活動もされている小畑さんが先日、久しぶりに湯島に来ました。
昨年、地域での看取りをテーマにした本も出版されました。
その本には私と節子のことも登場します。
小畑さんは、看取りに関してもっと関心を持ってほしいと「みとり塾」などの活動もされています。
最近の活動を話してくれた後、突然に質問されました。
「佐藤さんも介護が必要になったら娘さんに期待する考えの人ですか」と。
私にとっては、実はこの質問はあまり意味がないのですが、「そうあるべきだとは思っていないが、娘が面倒を見てくれると思っている」と答えました。
家族が面倒を見るべきだという発想は、私にはないのですが、逆に「見るだろう」と確信しているのです。
誤解されそうですが、言い換えれば、見るのが普通であるような生き方をするということでもあるのです。
それは同時に、私の介護で娘の人生がおかしくなるようなことは避けるという意味でもあります。
これはわかってもらうのが一苦労ですが、若い頃からの私の家族観です。
ところがです。
帰宅して、娘にその話をしたら、私は介護はしないよと言われてしまいました。
いやはや、娘の育て方が悪かった。
困ったものです。
でもまあ、いざとなったら、娘は介護し、私は介護させないようにするでしょう。
それに、節子がいない今となっては、誰かに介護してもらう生き方は避けなければいけません。
妻に介護してもらうのは幸せですが、娘に介護してもらうのは、たぶん幸せではないでしょう。
介護されずに、人生を終わるために、生き方を少し考えなければいけません。
これはけっこう難問かもしれません。
しかし解くのが面白い問題でもあるような気がします。
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