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2013/08/17

■エジプトが気になります

エジプトが気になります。
もし私がエジプトの国民だったらどうするだろうかと、いつも思います。
エジプトに限りませんが、これが私が報道に接する時の、基本的な姿勢です。
それに、自分と無縁な事件など、あるはずもありません。

こうした報道は、常に権力側の視点で報道されます。
たとえば、デモを排除する人たちは「治安部隊」と表現されます。
「正義」は軍部にあるという意識を、生み出すことになります。
デモ隊は、広場を「占拠」と表現されます。
それは事実ですが、「占拠」という言葉に、「秩序」を壊す行為であることを感ずる人がいるかもしれません。
占拠した人たちは、もちろん「秩序」を回復したいと思って集まっているのですが。
こうして、「言葉」が大きな影響を果たしています。
私たちが報道を通して得る情報は、すべて価値付けされています。
だからこそ、自らの価値軸をしっかりともって、報道を通して与えられる情報を相対化する努力を怠ってはいけません。
価値軸を持つということは、広くさまざまな動きを包括的に捉えるとともに、できるだけ多様な価値観や解釈に触れるということですが、それには限界があります。
ですから、自らの受け止め方が、いかに断片的で、偏ったものであるかを自覚しておくようにしていますが、その一方で、自らの直感を大事にもしています。

多くの死傷者を出しながら、しかも、それをすぐ隣に見聞しながらも、そこを退こうとしない人がたくさんいるのはなぜでしょうか。
彼らは、なんのためにそこまでがんばれるのか。
彼らの国家観と軍部の国家観とは全く違うのでしょう。
あるいは、その違いは「いのちへの愛」の有無かもしれません。
安倍首相のように愛国心を強調する人たちの愛は、自己愛でしかありませんが、しっかりと汗して生きている人たちを支えているのは、大きないのちへの愛です。
エジプトの動きを見ていると、それを強く感じます。
「大きないのち」という視点で捉えると、治安部隊による暴力行為で、自らの生命を失うことの意味が、単なる個人の死ではないことは明らかです。
行動を共にすることで、「大きないのち」を実感できるようになれば、自らの死など厭わなくなるのでしょうか。

もし私が、デモに参加した一人だったら、そうなるのだろうなと実感できます。
しかし、問題は、デモに参加するかどうかです。
そこに出かけていくためには、何が契機になるのか。

同じようなことが日本でも見えない形で起こっているのかもしれないのに、それが見えてこない、あるいは見ようとしなくとも、なんとなくやっていける。
それが問題かもしれません。
日本で起こっていることを、やはりもっとしっかりと見ようとしなければいけない。
エジプトの報道を見ながら、そんなことを思いました。

回路在住の中野さんが、メールで「当方、何とも言えない脱力感に苛まれております・・・」と書いてきました。
その言葉が、心に響きます。

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