■節子への挽歌2150:自体満足
節子
異常に暑い夏です。
まるで地獄の火が地球にまで飛び出てきているようです。
そうであってもおかしくないほど、いまの地球は乱れているのかもしれません。
親鸞に関する本を少し読み出しました。
学生の頃読んだきりで、以来、親鸞にはほとんど興味がありませんでした。
節子の実家のお寺さんのご住職が、法事の時に、親鸞に関する本が入手できていないという話をしたので、ちょうど持っていた親鸞の本を贈呈して以来、親鸞の本は1冊もなくなりました。
もう50年近く前の話です。
なぜかそのことが強く記憶に残っています。
「自体満足」という言葉があるそうです。
親鸞は「その身に満足せしむるなり」と説明しています。
「その身に」ということは自分自身として、ああ、よかった、これでいいんだ、と思うことです。
たとえどんな人生でも、良い人生だったと思うことです。
とまあ、こんな説明ではいかにも粗雑ですが、要は、他者と人と比較するのではなく、自らは自らだと思うことです。いや、ますます粗雑な説明ですね。
一昨日、わが家の愛犬チビ太が息を引き取りました。
この1年ほどは、もしかしたら延命行為を私たちはしていたかもしれません。
自らでは食事もできず排泄もできないのですから、もし野生に生きていたら、生きてはいけなかったでしょう。
ですから、寝たきりチビ太をみていて、彼は幸せなのだろうかと考えたことは何回かあります。
しかし、その一方で、犬には「死」という概念もなく、死への不安もないのだろうとも思っていました。
ただ、いま置かれている状況に素直に従っている、と考えると、それこそ親鸞のいう「自体満足」なのかなと思ったりしていました。
チビ太がいなくなって、その「自体満足」の意味をもっと知りたくなりました。
ネットで少し調べてみましたが,私が知っている以上のことは見つかりませんでした。
それで、少し親鸞の本を読んでみようと思ったわけです。
「自体満足」は、最近の私の心境です。
心の平安も、未来への希望も、もはや望みうべきもありません。
ましてや、満足など得られるはずもない。
だからこそ、「自体満足」なのです。
これが、もしかしたら親鸞の生き方なのかもしれません。
中途半端に親鸞の入門書を読んで、そんな気がしてきています。
かなり勝手な解釈だろうなとは、自覚していますが。
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