■ウェルフェアからデットフェアへ
「マルチチュードの民主主義宣言」と副題のある、ネグリとハートの「叛逆」(NHKブックス)は、ネグリの本にはめずらしく、実に平易で、具体的です。
彼らのマルチチュード論には異論も多いですが、この本に限って言えば、あまり異論は出ないのではないかと思います。
私には、まるで私が長年考え行動してきたことを支援してくれるような気がして、とてもうれしく読みました。
そこに、こんな言葉が出てきます。
社会のセイフティネットは「福祉(ウェルフェア)」〔=安寧に暮らしていくための〕システムから「負債(デットフェア)」〔=借金を背負って暮らしていくための〕システムへと移行した。(25頁)「デットフェア)」。
始めて出会った言葉ですが、とても実感できます。
借金できるかどうかは、人の社会的評価を決める重要な基準でしたが、いまや逆に借金を背負うことで、消費単位としての存在価値を認められ、社会で生きていく場所を見つける手段になっているのかもしれません。
ネグりは言います。
人びとは借金を作ることで日々の生活を生き延び、負債に対する責任の重圧を受けながら暮らしている。そして、借金は人びとを管理する。
負債の効果は、労働倫理のそれと同様に、休まず精を出して人びとを働かせることにある。
労働倫理が主体の内部から生まれるのに対し、負債は外的な制約として現れるが、すぐに主体の内部に入り込み、巣喰っていく。
とても納得できます。
つまり、借金があればこそ、社会の中で暮らしていけるといってもいいのです。
借金だけではありません。
ネグりは、さらに3つの、人々が生きていくことを支える「外的な制約」を示しています。
メディア、セキュリティ、そして代表者です。
それらに共通するのは「恐喝」です。
借金がそうであるように、危険をあおりながら、メディアや権力の庇護や代議制政治に依存しなければ生きていけないような状況が広がっていると指摘します。
問題は、その恐喝が見えるかどうかです。
そして、その脅しに立ち向かえるかどうかです。
いまは「岐路」なのです。
日本では、2011年は大震災と福島原発の年ですが、世界的な文脈では、2011年は別の意味を持っているようです。
新しい歴史の幕開け。
最近の日本の状況を見ていると、いささか難しいようにも思えますが、大きな時代の流れは間違いなく、反転に向かっているのでしょう。
それがこの本を読むと実感できます。
お薦めの1冊です。
| 固定リンク
「社会時評」カテゴリの記事
- ■「仕事とは生きること。お金に換えられなくてもいい」(2024.09.20)
- ■世界がますます見えなくなってきています(2024.06.02)
- ■人間がいなくなった廃墟の中で生きていませんか(2024.05.09)
- ■共同親権が国会で議論されることの意味(2024.04.17)
- ■なぜみんな地域活動が嫌いになるのか(2024.04.04)
コメント