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2013/08/09

■核廃絶と原発の存在

広島と長崎の市長の話には、いずれも核廃絶への切実な呼びかけがありました。
これまで何回、繰り返されてきた願いでしょう。
その話を、安倍首相はどういう気持ちで聞いていたのでしょうか。
心に響いていないことは間違いありません。
とても悲しい気持ちで、テレビの中継放送を見ていました。

長崎大学核兵器廃絶研究センター長の梅林さんが、インタビューに応じて、核兵器の被害を実際に受けた国として、核兵器不使用の条約に調印しないのは、恥ずかしいばかりか、罪深いことだと話されていたことにとても共感できます。
実に罪深い。

さらに、私には、こういう動きと、脱原発がなぜつながらないのかと不思議です。
私には、原発も間違いなく核兵器の一種です。
たしかに能動的な核兵器ではないかもしれませんが、その存在自体が、人類を含む生命への危険な暴力源だからです。
それらを別に考えている限り、核廃絶は進まないような気がします。
そういう想像力が、いま求められているように思います。
「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ」の先に、「ノーモア・フクシマ」があることを、なぜ見ようとしないのか。

毎年、この平和式典には、違和感がどうしてもあります。

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