■節子への挽歌2205:老いること
節子
岡山の友澤さんと電話で話しました。
今年で80歳だそうです。
節子の友だちの松尾さんもあまり調子がよくないようで、最長老の友澤さんが一番お元気のようですが、それでも最近は少し耳が遠くなってきたそうです。
みんなそれぞれに老いているわけです。
老いることの面白さを、節子は味わうことがなかったですが、節子だったらたぶん楽しい老い方をしたような気がします。
私はどうも老い方がわからずに、まだこれまでの生き方を大きく変えられずにいます。
節子と一緒だったら、それなりに老いることを楽しめたのでしょうが。
時に、友人からも歳よりも若く見えると言われます。
つまりきちんと老いていないのです。
友人は、たぶん元気づける「ほめ言葉」で言ってくれているのですが、やはりきちんと老いることに失敗していると言うことでもあります。
節子が62歳で老いることをやめてしまったように、私ももしかしたら、その時点で老いる事ができなくなったのかもしれません。
これはとても不幸なことのような気がします。
人は伴侶や家族との関係性のなかで老いていけるのだと思いますが、私にはそのいずれにおいても、老いる条件がないのです。
あまり口には出せませんが、不幸といえば不幸です。
実際に、友人からは不幸だねと言われてしまったこともあります。
まあ面と向かって言われると、結構辛いものですが、事実だから仕方がありません。
いろんな意味で、私の世界では時計は止まったままです。
もしいま節子が彼岸から里帰りして来たら、この6年間、何をやっていたのと笑われそうです。
どうしたら老いに向かえるか、そろそろ考え出さないといけません。
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