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2013/09/30

■節子への挽歌2220:死は必然である

節子
最近、友人たちから死生観に関する本が2冊、届きました。
いずれも私のホームページで少し紹介しましたが、一条真也さんの「死が怖くなくなる読書」と藤原さんが編集した「今を生きる僧侶の言葉」です。
言霊の力は大きいのです。
しかし、私の場合、死生観に関する言説は、節子との別れを体験してからは、受け取り方が変わりました。
心に響いてこないのです。
死生観を一般論として、文字にすることへの拒否感かもしれませんが、自分のことを語っていないものには、特に違和感を強く持つことが多いです。

ところで、後者の本で知ったのですが、浄土真宗本願寺派では、日本各地でビハーラ活動というのを展開しているそうです。
「ビハーラ」とは、サンスクリット語で「安住」「安らか」「くつろぐ」という意味で、ビハーラ活動とは、ホスピスやターミナルケアの仏教版と言ってもいいでしょう。
生老病死の苦しみや悲しみを抱えた人々を全人的に支援するケア活動で、具体的には、僧侶、医療関係者、福祉士などがチームを組み、患者さんの心に寄り添い、支援を求めている人々が不安と孤独のなかに置き去りにされないように、共感しその苦悩を直視し、自らの問題として共に歩む活動だそうです。
その活動の基本にあるのは、「死は敗北である」とは考えず、「死は必然である」と捉えるという姿勢です。
これは前者の本の著者、一条さんと同じです。

だれもが死を迎えると考えることは、だれでもわかっていることですが、愛する人の死に直面すると忘れてしまいます。
死が、その人だけを襲ったと、ついつい考えてしまうのです。
しかし、「だれもが死を迎える」と思いなおせば、心は少しだけ和らぎます。

「今を生きる僧侶の言葉」の紹介文にこんな文章がありました。

死を前に癒されていく人の心境の変化を知ることは、まだ逝かない人であっても、悩み苦しむ心に染みわたり、安らぎを感じさせてくれる。
遺された者に、安らぎを与えてくれる死というものもあるのだと気づきました。

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