■節子への挽歌2192:生きた証を残したいという煩悩
節子
昨日、テレビで画家の前田青邨のことが紹介されていました。
彼は、自分のことは忘れられて、作品だけが残ればいい、と言っていたそうです。
しかも、できれば自分の作品をすべて集めて燃やしたいとも言っていたそうです。
ぼやっとテレビを見ていたので、かなりいい加減な記憶なので間違っているかもしれません。
しかし、とても共感できます。
存在したことを忘れられる生き方。
しかし、どこかにその痕跡が残っている生き方。
おそらくほとんどすべての人が、そうやって生きてきています。
しかし、前田さんの場合は、その作品が、すでに「前田青邨の作品」になってしまっていますから、彼自身のことも詮索されながら歴史の中に記録されてしまいます。
だから前田さんは、すべての作品を燃やしたかったのでしょう。
前田さんの場合、作品が残れば、必ず個人の名も残るからです。
名もない人が残した絵や壁画は作品だけが残ります。
前田さんが望んでいたのは、たぶんそういう作品の残り方だったのでしょう。
節子はいくつかの作品を残しています。
家族以外はほとんど見たこともない作品で、いつかは廃棄されるでしょう。
家族がいなくなった後に、もし作品だけが残っても、それは一体誰が書いたものかわからなくなるでしょう。
生きた証を残したいという人が少なくありません。
その感覚が、私にはよくわからないのですが、生きた証は、その時々に関わりのある人の心身にこそ、残されます。
そして、その人とともに消えていく。
私には、それで十分です。
そういう考えからすれば、こんな形で挽歌をネットにアップしていることはおかしな話です。
どこかに私の考えに間違いがあります。
何かに執着している自分がいます。
明日は節子の7回目の命日です。
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