■節子への挽歌2208:また祈りが増えました
節子
2人の友人ががんで手術をします。
お2人とも湯島のサロンによく来ている人です。
知らない人がまだ多いかもしれません。
こういう知らせを受けると、ただ祈るだけしかありません。
毎朝の節子への祈りに合わせて、祈らせてもらっています。
節子の時も、節子のことを知って、毎朝祈ってくれていた人がいます。
それを知ってとてもうれしくなりました。
お見舞いの花よりも、お見舞いの言葉よりも、祈ってもらうことはうれしいことです。
祈ると言っても、私の場合は、ただその人の顔を思い出すだけです。
人の顔が思い浮かべば、当然、祈りが生まれるからです。
過剰な言葉は不要です。
ただ思い出せば、祈りは天に届くでしょう。
しかし、届いたからといって、何かが変わるわけではないかもしれません。
私は、節子との別れで、それを知りました。
あれほど祈ったのに、奇跡は起こらずに、節子は逝ってしまいました。
だからといって、祈りが無駄だったとは思いません。
祈りは、祈ることにこそ、意味がある。
今はそう思えるようになりました。
世の中には、祈ってほしい人は少なくないでしょう。
私だって、祈ってほしいです。
山のように重荷を背負っていますから。
だからそのぶん、他者を思って、祈るのです。
自分が幸せになりますように、などというのは、私の祈りにはありません。
おそらく多くの人もそうでしょう。
みんな他者のために祈るのです。
そのことも、節子が逝ってしまってから、実感できたことです。
周りの人たちが、みんな幸せなほど、自分が幸せなことはありません。
周りに問題を抱えている人がいるほど、辛いことはない。
奈落の底を経験すると、それがよくわかります。
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