■節子への挽歌2202:自分自身に向かって語るのと同じくらい自由に話せる相手
節子
今日は、たぶんとても仲の良いご夫妻にお会いしました。
ご夫妻で会社をやっています。
ビジネスの話で、しかも初対面だったのですが、とても気持ちのいいご夫妻で、初対面にもかかわらず、昔からの知り合いのような気分になってしまいました。
と同時に、節子と一緒に仕事をしていた時のことを、少し思い出しました。
古代ローマの賢人といわれたキケロは、こう言っているそうです。
「世界で最も強い満足感をもたらす経験とは、地球上のあらゆる題材について、自分自身に向かって語るのと同じくらい自由に話せる相手をもつことである」ビジネスの話もしながら、お2人に昼食をご馳走になってしまったのですが、その時にふと思い出したのが、このキケロの言葉です。
キケロはたぶん、志を同じくする友というような意味で語っていると思いますが、私にとっては、いうまでもなくそれは節子でした。
節子に対しては、もう一人の自分と話し合うような自由さと素直さを持てました。
あらゆる題材について、私は節子に話しました。
節子にはまったく理解できないような話題も含めてです。
節子は、たとえ理解できなくとも、あるいは興味を持たなくても、きちんと聴いてくれました。
すべて賛成してくれたわけではありません。
きちんと理解してくれたわけでもありません。
しかし、どんなにわからない話でも、また自らに関係のない私の個人的な話でも、話せば聴いてくれたのです。
節子がどう思おうと、私は一切気にせずに話せました。
人は、話しながら考えます。
無意味なことも含めて、節子と話すことで、私は考える世界を広げることができたような気がします。
そして、「話すこと」の大切さと楽しさを学んだのです。
私が、誰かと話すのが好きになったのは、たぶん、気がねなく自由奔放に話せる節子という相手に恵まれたからです。
今日、仲の良いご夫妻と話をしながら、それに気づきました。
そんなこともあって、初対面にもかかわらず、私はいささか冗長になってしまったようです。
キケロがいう幸せが、もう体験できないことが、少し残念ですが、その体験ができたことに、改めて感謝した気がしています。
節子は、ほんとうに最高の話し相手でした。
節子にとって、私が最高の話し相手だったかどうかは、あまり自信がないのですが。
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