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2013/09/19

■さみしい社会

まだお会いしていない方からのメールが、心に深く残ってしまいました。
その方には了解を得ていませんが、一部を紹介させてもらいます。
とても重要な問題提起を含んでいると思うからです。

私は、子どものいない50代のシングルで、仕事中心の、地域社会とは縁遠い日常を送っています。会社をやめたら、どこでだれとどう生きていくかという問題が、まだ少し時間はありますが、ひたひたと迫ってきました。
こうしたリタイア後の課題は、家事も子育ても妻まかせで生きてきたサラリーマンが抱えているものとほぼ同じといっていいでしょう。結婚しない女性、子どものいない女性が増えていますが、これからは女性の課題でもあると思います。
また、介護が必要になったときの不安もあります。財政状況の厳しいなかで、高齢者福祉もだんだんと先細りになっていくのは明らかで、家族がいてもいなくても、公的な介護に頼れないとしたら(現在も、家族あっての介護保険制度ですが)、経済的資源もソーシャル・キャピタルももたない高齢者は耐えて死ぬのを待つしかなくなってしまいます。それはやはり、さみしい社会ですね。
この文章につづいて、この方が、その解決に向けてどうしようとしているかの話が書かれていますが、それは省略します。
私が今回書いておきたいのは、ここに書かれた「さみしい社会」と家族の話です。

現代の社会では、結婚しないと家族からはじき出されかねません。
この方も、シングルですので、仕事がなくなると社会との接点が断ち切られかねないわけです。

鷲田清一さんは、「家族は〈自然〉と〈制度〉の接点であり、交点である」と、「〈ひと〉の現象学」という著書で書いています。
そしてまた、「家族は、民を管理する国家組織の最小単位であると同時に、そうした権力ヘの民の抵抗の拠点ともなりうる場所である」とも書いています。
しかし、家族は今、大きく変質してしまい、おそらく「権力ヘの民の抵抗の拠点」とはなりえないまでに壊されたと思います。
壊したのは言うまでもなく、経済至上主義です。
鷲田さんは、こうも書いています。
「近代という時代は、家事というかたちで家族のメンバー(とくに女性)に負わされてきた家族の機能を、家庭外のサーヴィス機関に委託する傾向を推しすすめた。つまり、メンバーの生命機能にじかにかかわる世話を、金銭をもって外部の専門職に委ねるようになった」。
家事の市場化です。日本では、「女性の社会進出」とも言われました。
こうした動きを多くの人は歓迎しました。
私は1970年代から、このことに大きな危惧を感じていました。
女性の社会進出は、単に女性の経済機関への取り込みでしかなく、社会からの略奪であり、汎市場化の入り口になるだろうと考えていたからです。
会社時代には、そう主張し続けていましたが、だれからも相手にされませんでした。
私が会社を辞めた、たくさんの理由の、それは一つです。
最近では「介護の社会化」などという言葉で、介護の市場化が進められました。
そういえば、「文化産業論」が言われだした時にも、恐ろしさを感じました。

話が外れてしまいましたが、家族や家庭は市場化の流れの中で壊されてしまったのです。
そして、生活の不安があふれ出しました。
不安があればビジネスのチャンスがあります。
それが近代のパラダイムなのです。
だから「さみしい社会」はある意味での近代の到達点かもしれません。

「さみしい社会」から抜け出すためには、家族を取り戻さなければいけません。
それは別に血縁家族である必要はありません。
共時的だけではなく、通時的に、寄り添いながら、支え合いながら、しかも開かれたかたちで変化していく、ゆるやかなつながりの新しい家族を、どうやって創りだすか。
これは私のテーマでもあります。

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