■節子への挽歌2198:相思花
節子
昨日、彼岸花のことを書きましたが、もう一度、彼岸花の話です。
彼岸花は、まず花が咲き、花が終わると葉が出てきます。
ですから、花と葉が別々なのです。
そのため、彼岸花の花は、自らの葉を見ることがなく、葉は花を見ることがないのです。
こういう花を相思花と言うのだそうです。
「花と葉が同時に出ることはない」というところから「葉見ず花見ず」とも言われるそうです。
節子が旅立った年に公開された映画に「22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語」という大林宣彦監督の作品があります。
Lycoris(リコリス)というのは、彼岸花の学名です。
ギリシャ神話の女神、海の精の一人の名前からとられたものだそうです。
この映画は、悲恋物語だそうですが、私は観ていません。
しかし、「葉見ず花見ず」からどのような物語かはなんとなく伝わってきます。
彼岸花にとって、花も葉も不可欠な存在です。
冬を越した球根がまず花を咲かせます。
その花が散ると、今度は葉が茂りだします。
その葉は冬になっても枯れることなく光合成して、球根に栄養を蓄えます。
春になると葉が枯れて、秋になると球根が花を咲かせるのです。
お互いを見ることのできない花と葉であるがゆえに、人はそこに「葉は花を思い、花は葉を思う」というような感情移入をしてしまうのです。
私が気になっているのは、花の役割です。
花がタネを生み出して、彼岸花を増やしていくのではないようです。
何のために花はあるのか。
そして見ることのない花のために、葉は冬まで越して働くわけです。
その関係がちょっと気になるわけです。
ちなみに、彼岸花の花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」。
「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
いずれも、いまの私にどこかでつながっているような気もします。
しかし、彼岸花の花も葉も、それぞれに会うことはありません。
彼岸花は、とても悲しい花なのです。
だから自らの球根に、烈しい毒を蓄えてしまっているかもしれません。
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