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2013/10/20

■節子への挽歌2240:愛の本性

節子
昨日の新聞に、国語辞典の「大辞林」のデジタル版に、8つの言葉の解釈を一般公募して、その中からいくつかを収録するという記事がありました。
すでに公募は始まっていて、もう4000件ほど集まっているようです。
応募が一番多かった言葉は「愛」だそうです。
新聞には、その応募例として、「愛」とは「誰もが努力次第で持ち得るもの」というのが掲載されていました。
大いに違和感がある解釈です。
これでは「愛」を遠くに感じてしまいます。

私が感じているのは、「愛とは誰もが本来持っているもの」なのですが、しかしこれは採用はされないでしょう。
面白くありませんから。
辞書による言葉の説明は、多くの場合、私の感覚とは合わないものが少なくありませんが、愛はその典型かもしれません。

人の特性を一つあげるとしたら、私は「愛すること」をあげます。
とっさの時に表われるのが人の本性だとすれば、それはたぶん「愛」でしょう。
ホームから落ちた人や川でおぼれている人を見て、反射的に助けようとして飛び込んでいく話はよく聞きます。
生命への愛は、すべての人が本来持ち合わせているように思います。
というか、それが「生命」ということでしょう。
にもかかわらず、日常的にはそれが素直に出てこない。
努力しなければ、愛せなくなっているとしたら、それはとても悲しいことです。
つまり、愛そのものがすでに打算的なものになってきていると言うことです。
そうした現状を否定するつもりはありませんが、私自身はそうはなりたくないと思っています。

この挽歌を読んだ人は、私が妻だけを溺愛していて、執着していると思うかもしれません。
そうかもしれませんが、私自身はそうは思っていません。
私にとっては、すべての生命が愛の対象です。
誰かに会うと、まず頭に浮かぶのが、この人のために何かできることはないかという思いです。
そこに「大きないのち」でつながっている自分のいのちを感ずるからです。
私の感覚では、それが「愛」です。
他者を愛することは、まさに自らを愛することなのです。

にもかかわらず、私にとって節子は特別の存在です。
それは、そうした私の「愛」が、そこに象徴され具現化していたからです。
そして、節子は、そうした私の思いに、素直に反応してくれました。
素直すぎるほどに反応したため、私には彼我の区別が出来なくなったほどです。
それが、もしかしたら、いまの迷いにつながっているのかもしれません。

話がそれてしまいましたが、愛はすべての人が本来持っているものだと考えると、とても生きやすくなります。
もちろん裏切られることはありますが、それさえ許せるかもしれません。
なんだか「きれいごと」を書いてしまったような気もしますが、これが私の素直に気持ちでもあります。
みんながもっと自らのなかにある「愛の本性」に気づいてほしいです。

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