■「産業化・近代化のはてに人間の心に宿る暗闇」
台風の被害に目を奪われているなかで、私たちの未来を方向づけるような、さまざまな動きが加速されているような不安を感じます。
テレビに出ている、いわゆるコメンテーターや解説者などの発言を聞いていると、その不安は強まる一方です。
夏に読んだ「ナショナリズムの復権」に出ていた文章を思い出します。
著者の先崎彰容さんは、こう書いています。
全体主義は、産業化・近代化のはてに人間の心に宿る暗闇であって人間精神の本質的な変化のことである。それは精神の空白、とでも呼ぶべきものであった。個人がすべての法的な保護や社会の役割を奪われ、裸の自分、きわめて困難な自由へ放り出されることである。全体主義は、こうした孤独な個人の集合体=大衆が主役の運動である。なにやら近未来の日本が全体主義化することを予告しているような文章です。
いや、すでにもう、それは始まっているかもしれません。
最近、何回か書いていますが、私たちはかなりの深さで、産業化に順応するように思考を方向づけられています。
そして、政治システムでは権力への従順さを身につけ、経済システムでは金銭への依存に浸りきっています。
言い換えれば、生活を政治と経済にゆだねてしまっているわけです。
いわば、政治と経済のための生活になってしまっているのです。
一昨日、ソーシャル・ガバナンス研究会に呼ばれて、お話をさせてもらってきました。
私が考える「ソーシャル・ガバナンス」は「コモンズの共創」、つまりみんなが支えあって生きる仕組みをつくることです。
ソーシャルをガバナンスするのではなく、ガバナンスこそがソーシャルだと、パラダイム転換するのが私の発想です。
生活を起点で考えると、経済も政治もまったく今とは違ったものになります。
しかし、現実はますます権力と金銭とが生活を統治する条項へと進んでいます。
「産業化・近代化のはてに人間の心に宿る暗闇」「精神の空白」。
いずれも、とても気になる言葉です。
しかし、それは私の周りにも、いや私自身の中にさえ、存在しています。
私たちには、自由など、いまやほとんどないのです。
先の著書で、先崎さんは、それに抗うために、ナショナリズムの復権を提唱しています。
ナショナリズムは、また地域と歴史にこだわることでもあります。
地域と歴史のない生活など、存在し得ないからです。
全体主義が何をもたらすかは、私たちは歴史から学ぶことができます。
しかし多くの人たちは、学ぶことさえ忘れています。
いや、学ぶ余裕がないと言うべきでしょうか。
ニーメラーの嘆きを思い出します。
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