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2013/10/10

■節子への挽歌2229:愛することと愛されること

節子
愛の究極的な表現は殺人かもしれません。
それによって相手を独占できるからです。
食べてしまいたいほど可愛い、という言葉は、そうしたことを示しています。

物騒な話から始まりましたが、最近はストーカー事件での殺害が時々報道されます。
なんともやりきれない事件ですが、愛の怖さを感じます。
相手を殺害するのは愛ではないといわれそうですが、一概には決め付けられません。
人の感情は実に不思議なものです。
その状況に自らが陥って初めてわかることもあるでしょう。

私はいま、これまで経験したことのない不思議な状況にあります。
自らを客観的に見る余裕などないはずですが、時々、それが見えてしまいます。
まるで幽体離脱して自分を見ているような気持ちです。
しかも不思議なことに、おろおろしている自分と楽しんでいる自分がいるのです。
もしかしたら、彼岸から現世を見るとこんな情景が見えているのかもしれませんね。
節子は、それを楽しんでいるかもしれません。
それにしては、支援の手を差し伸べてくれないのは不満ですが。

そんな気持ちで、愛が殺害に及ぶ事件をみていると、きっと加害者も不思議な状況に落ち込んでしまったのだろうなと、少し同情してしまいます。
そういう状況では、たぶん、正常な思考回路は働いていないのです。
だから今の私もいささか判断が危ういのです。
節子がいたら、自分の考えを相対化できるのでしょうが、一人で考えていると空回りか無限の突き進むかのいずれかに陥りがちです。
たぶん最終的には後者に向いて、行くところまで行ってしまいます。
歯止めがきかなくなるのです。
まあ、このように自分の状況がわかるうちは、私もまだ大丈夫かもしれません。

しかし、なぜ愛が殺意に変わってしまうのか。
それは、たぶん、多くの人が「愛すること」を愛とは考えずに、「愛されること」を愛と考えているからでしょう。
よく考えてみれば、「愛されること」ほどわずらわしく、迷惑なことはないのですが、なぜか多くの人はそれを好みます。
愛されたら、それに応えなければいけません。
いろいろと制約も受けかねませんから、私のようにわがままに行きたい人間には不要のことです。
しかし、相手を純粋に愛していれば、相手も愛してくれるものです。
相手が愛してくれることと自分が愛されることとは、微妙に違います。
人の愛し方は、人それぞれだからです。

相手が自分を愛しているのはわかっても、だからと言って、自分が相手から愛されていると実感できないことはあるものです。
両者は微妙に違います。

節子と40年、生活を共にして、愛に関してはさまざまな気づきをしました。
お互いにわずらわしくない生き方を30年かけて築きあげたのに、それが途中で終わったのが、ちょっと悔しい気がします。

そして、そうしたことに気づく前に、失敗してしまう若者が多いのが、とても哀しいです。

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