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2013/10/04

■節子への挽歌2224:「カケコー」

節子
今年は20年の一度の伊勢神宮の遷宮の年です。
そのクライマックスともいえる遷御の儀は、2日の未明、「カケコー」の声で始まりました。
これは神への呼びかけでしょう。
日本は言霊の国と言われますが、もともと言葉は神のものだったのではないかと思います。
神は、言葉を通じて、人と共にあったように思います。

今のような言語ができたのは3500年ほど前だそうです。
それまでは、神の言葉が人の右脳に響いていたと言います。
人は神と共にあり、彼岸と此岸はつながっていたと言います。
神の言葉を模倣して、人の言葉が生まれました。
その言葉は、もっぱら左脳で使われたと言います。
そして「意識」がうまれたのです。
これは、トール・ノーレットランダーシュの「ユーザーイリュージョン」からの受け売りです。

言語が生まれて、人は神とは別の世界を持つようになったのでしょう。
シュメールでも黄河流域でもおなじ時期だったようです。
聖書のバベルの塔の話では、天まで届く塔を立てようという人間の不遜さを起こって、言語を奪ったと書かれています。
それで塔は完成しませんでした。
神が怒ったのは、塔を建てようとしたことではなく、神の言葉に従わずに自らの言葉を使い出したことへの怒りだったのではないかと思います。

言霊は、言葉そのものに現実を生み出す力があるわけではありません。
最近読んだ中公新書の「言霊とはなにか」によれば、神とのつながりによって、言葉は力を持ったと言います。
しかし、神から見放されれば、言葉は単なる意味を伝える不完全な道具でしかありません。
神の言葉と人の言葉を混同したところから、人の苦労は始まったのかもしれません。

遷御の儀での「カケコー」は意味を伝える言葉ではなく神への呼びかけでしょう。
呼びかけられた神は、応えてくれます。
今回も、一陣の風が吹いたそうです。
神はまだ不遜な人類を見放してはいないわけです。
そんなことを考えながら、遷御の儀の報道を見ていました。

ところで、節子と一緒に、伊勢神宮に行ったはずなのですが、その記憶がまったくありません。
なぜでしょうか。
不思議です。

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