■節子への挽歌2242:霊魂において乱されないこと
古代ギリシアの哲学者エピクロスは、人間の生きる原動力は快楽であり、快楽こそが「目指すべき目的」であると考えました。
快楽という言葉は、現代では享楽的な意味合いが強いですが、エピクロスのいう「快楽」は「肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないこと」という意味で、特に後者に重点が置かれています。
節子は、最後の闘病において、残念ながら「肉体においての苦しみ」からは自由にはなれませんでしたが、「霊魂において乱されないこと」は実現できたかもしれません。
しかるに、いまの私を見ると、「肉体においての苦しみ」はないものの、「霊魂における乱れ」から自由になっていないような気がします。
これは考えなければいけません。
節子との別れが「霊魂における乱れ」を生み出した時期もありますが、それは「乱れ」というよりも「混乱」というのが正しく、混乱がおさまれば、むしろ平安が感じられるものでもあります。
エピクロスがいう「霊魂の乱れ」は、そういうものではないでしょう。
うまく説明できませんが、心の乱れ方には2種類あるような気がします。
時には、心の乱れが、平安や(エピクロス的)快楽につながることさえあるように思います。
娘のジュンが最近、よく「平常心」ということを口にします。
ジュンも、この数年、いろいろなことがあって、苦労してきています。
おそらく責任の大半は私にあるのですが、平常心とは「霊魂において乱されないこと」かもしれません。
私も、平常心を目指さねばいけません。
最近の私は、おそらく「平常心」を失い続けているからです。
もう1人の娘のユカからも、父親はどっしりとしてほしいと言われました。
どうも私は軽すぎるようです。
それはそうでしょう。何しろ宮沢賢治が「雨にも負けず」に書いているような、「おろおろした生き方」にも憧れがあるからです。
考え直さなければいけないかもしれません。
秋になり、空がきれいになりました。
節子と見た千畳敷カールの青空を時々思い出します。
しかし、それを楽しむ気にはまだなれません。
「霊魂」がまだ乱れているからです。
乱れは、悲しみからは生まれません。
乱れを生むのは「邪念」であり、「執着」です。
エピクロスのメッセージにはきちんと耳を傾けなければいけません。
そう思う、秋の日です。
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