■節子への挽歌2235:愛する人の突然の死は人生を変えます
節子
しばらくあまり挽歌らしからぬ内容が続きました。
私の精神状況がどうしても表れてしまいます。
今日は雨です。精神状況が弱いときには、天気も大きな影響を与えます。
この頃、死を伴う事件のニュースに触れると決まって感ずることがあります。
この事件で、いったい何人の人が人生を変えてしまうのだろうか、と。
そう思うと、自分のことが少し相対化できます。
お経に説かれている、死者を出していない家族はないというキサー・ゴータミの話を思い出します。
悲しみは、いかにも自分中心のものです。
親しい人、とりわけ愛する人の突然の死(別れ)は、人生を変えます。
その変え方は、人それぞれでしょう。
良い悪いではなく、ともかく変えてしまう。
でもみんな、なんとかこれまでの生き方を続けようと努力します。
それができないことを知っていても、です。
人生は続いていますから、大きな断絶を認めるわけにはいきません。
そうしたかったら、出家でもするしかない。
しかし、家族がある以上、なかなかできるものではありません。
それに、人生が断ち切られたなどと思えば、前に進めなくなりかねない。
それで、脳が作動し始めます。
断絶したはずの人生を、取り繕いだすのです。
そして、一見、連続したような形で、人生は続くのです。
しかし、心身は非連続であることをよく知っています。
非連続の人生を生きることは、けっこう辛いことです。
それにしても、たった一人の他者が死ぬことで、これほど変わってしまう人生とはいったい何なのか。
時々不思議に思うことがあります。
前に書いたことがありますが、節子の死を知って、ある人(初対面の人ですが)から「これから自由になれますね」と言われたことがあります。
その時は耳を疑いましたが、冷静に考えれば、たしかに自由になったのです。
そう考えれば、辛さは軽減するでしょうか。
そうならないのが、愛する人との別れです。
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