■知識のあとからくる博学の無知
昨日の時評編で、「「知る」先にあるのは「望む」「できる」だけではない。では何があるのか」と質問を投げかけました。
読んだ人から、「感謝」ではないかというコメントがありました。
たしかに、知ることで感謝の念が起こることよくあります、
しかし、私が考えている、「知る」の先にあるものは、やはり「知る」なのです。
つまり「知る」は無限に続いていくわけです。
モンテスキューは、その作品「エセー」にこう書いています。
無知には、知識の前にある初歩的な無知と、もうひとつ、知識のあとからくる博学の無知がある。最近では、東大の安冨さんが同じような発言をされています。
大学教授にも、そういう人が現れたことが実にうれしいです。
大学教授ほど、無知な人はいないのではないかと、私はずっと疑ってきましたから。
何かを知るということは、その先にさらにたくさんの知らないことを知ることです。
知の好奇心は、こうして無限に広がっていきます。
しかも、その広がり方は指数関数的に加速されます。
つまり、知るということは、知らないということに気づくことでもあるのです。
さらにいえば、知ると知らないとは実はコインの裏表でもあるわけです。
博学と無知とは、同義語なのです。
木原武一さんは、「快楽の哲学」のなかで、「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」という自覚こそ、知的快楽の最大の原動力ではなかろうか、と書いていますが、知的快楽などと言わずとも、「私は何を知らないか」という自覚をもつことこそ、豊かで平安な人生の基礎だろうと思います。
しかし、人は、知ってしまうと、ついつい知識を振り回したくなる。
小賢しい私などにはよくあることですが、知識を振り回した後の自己嫌悪感を何回味わったことでしょう。
そんな時間があれば、さらにその先の無知な世界へと進むのがいいのです。
無知に安住したくなる自分がいやになるわけです。
ところで、知ってどうするのかと問われそうです。
それにも応えておく必要もありそうです。
知ったら、自ずと自分の行動は変わってきます。
「望む」「できる」と他人事で思考せずに、一人称自動詞で動き出しているはずです。
時には、おろおろすることもありますが、知らずにおろおろするのではなく、知った上でのおろおろなのです。
知ることこそ、人が人らしく生きることだろうと思います。
念のために言えば、ここで「知る」とは学問的な知識に限った話ではありません。
むしろ現場における体験の知こそ、最高の知だと思います。
人生は知ることの積み重ねです。
そうした人の生き方を、なぜかいまさえぎるような社会になってきているような不安を感じています。
もしその不安が正しければ、人が人でなくなろうとしているのです。
人が人でなくなったら何になるのか。
さてまた問題が生まれてしまいました。
その応えはあまりにも明白ですので、書くのは控えます。
それにこのブログの時評編では、繰り返し書いてきたつもりですので。
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