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2013/11/15

■公と共

昨日、共済のことについて少し書いたので、改めて、「公」と「共」について書きたくなりました。
「新しい公共」という言葉が一時はやりましたが、私にはわかりにくい言葉でした。
なぜなら、「公」と「共」とはまったく別のものだと考えているからです。
最近の言葉を使えば、「公」はガバナント発想、「共」はガバナンス発想だと思います。

私は我孫子市に住んでいますが、20年ほど前、我孫子駅北口前の開発のために、そこにあった市有地の周りに、誰も入れないように網が張り巡らされました。
どうせあいているなら、自転車置き場にしたらいいのにと、私は思いました。
市有地は市民みんなのものだろうと思っていましたが、市有地とは市民のものではないのだと思い知らされました。

建築家の大学の先生から聞いた話ですが、たしか入谷のある住宅地の真ん中に都の所有地があったそうです。
近くの住民が勝手に野菜や花を植えるので、ある時、やはり周囲に網が張られ、誰も入れなくなってしまいました。
ところが、手入れが十分でなかったために雑草が生い茂り、近所迷惑な存在になったそうです。
周辺の住民が奪還策を考えました。
雑草を刈るためにという口実で、住民が都からカギを借り、草刈りをした後、こっそりカギを複製してしまったのです。
そして、その後は、そのカギでそこに出入りし、みんなできれいな花畑をつくったというのです。
もちろん管理者である都には内緒です。
20年ほど前の話なので、不正確かもしれませんが、大筋は間違っていないはずです。

公有地は勝手には使えない土地です。
つまり私有地と同じ、排他的な空間です。
共有地はみんなが使える土地です。
もちろん、だれでも使えるとは限りませんが、それは「共」をどう考えるかの問題です。
「開かれた共」という概念もあります。

この2つの事例が、「公」と「共」の違いを示しています。
「公」は「大きな家」という意味ですから、「組織を起点」にした概念で、統治概念です。
それに対して、「共」は「仲間同士」という「個人を起点」にした概念で、生活概念と言っていいでしょう。
発想の視点と発想のベクトルが違うのです。
それを一緒にして「公共」と言ってしまうのは、おかしい話です。

もちろん、「公共」という言葉は、昔からありました。
それは「公が統治する共」と言う意味だろうと私は理解しています。
「公共」と言う言葉が、「共」を排除していたわけです。
そのことを、2つの話は教えてくれています。

私が「新しい公共」という言葉が嫌いなのは、そういう理由からです。
そして、「共」という言葉にこだわっているのも、そういう理由からです。

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