■節子への挽歌2277:家の中の風景の変化
節子
寒くなってきました。
昨年はついにこたつを立てずに、冬を越しましたが、今年はこたつを立てようと思います。
節子がいなくなってからの数年の冬は、和室のこたつに、文字通り引きこもりでした。
何もする気がなく、死んだようにしていた2年間もありました。
昨年の冬は初めて、その和室から抜け出たのですが、もうこたつを立てても大丈夫でしょう。
こたつは、家族を集める働きを持っていると思っていましたが、どうもそうではなくて、節子が家族を集める働きをしていたようです。
一昨年までのこたつは私が独占していました。
あったかな団欒の場所から、寂しい孤独の場所へと、こたつのイメージが変わってしまいました。
一人住まいになると、こたつの意味は変わってしまうようです。
節子がいなくなってからも、家の中の様子はほとんど変わっていません。
しかし、その意味合いは微妙に変化しているように思います。
その典型が、和室であり、食卓です。
わが家の食卓は、節子の強い希望で、円卓なのです。
私には、和室も円卓もどことなくさびしいものになってしまっています。
わが家の短い廊下の側面に、家族のミニギャラリー用の4つの隙間空間があります。
節子やジュンがいた頃は、そこにそれぞれ工夫して何かを飾っていました。
そういうのが好きな節子は、いろいろと季節ごとに工夫していましたが、いまは注意しないとただのもの置き場になってしまい、それもまたさびしさを感じさせます。
節子が、季節ごとに替えていた絵画や額も、今は誰も替えようとはしません。
節子が残していったままに、残しておきたいという、私の無意識な思いを、もしかしたら娘たちも感じているのかもしれません。
室内に飾られているものの記憶は、ほとんどが節子のものです。
そうしたものをつないでいくと、節子の世界が見えてくるのですが、私には背景がわからないものもあります。
物には、その人の歴史や物語があればこそ価値があります。
海に出て行く船の絵がありますが、これは節子が油絵を習っていた時の先生の絵です。
節子には油絵仲間との楽しい思い出が浮かぶでしょうが、私には単なる絵画でしかありません。
和室の床の間には、節子が書いた書が飾られていますが、節子にはその書は仲間や先生との楽しい思い出が詰まっているでしょう。
しかし、私には、さびしい思いしか呼び起こせません。
さびしさの向こうには、たくさんの楽しさがあるはずですが、私にはそこまで届くことができません。
節子の楽しい思い出話を聞くことができないからです。
節子がいれば楽しい時間を実現するものも、節子がいないために寂しさしか呼び起こさないとしたら、同じ風景がまったく違ってしまうわけです。
しかし、それを替える気にはなれません。
だからなかなかさびしさから抜けられないのかもしれません。
困ったものです。
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