■節子への挽歌2265:死の迎え方
節子
昨日の湯島のサロンに、若い僧侶の中下大樹さんが参加してくれました。
お寺に生まれたわけではないのですが、思うことあって、僧籍を得て、さまざまな活動に取り組んでいる人です。
今年の春に、自殺のない社会づくりネットワークで開催した集まりで知り合いました。
若いにもかかわらず、500人ほどの最期を看取った体験をお持ちです。
昨日の集まりで、ある人が、孤独死の何が問題なのかと問題提起したのをきっかけに、話がいろいろと飛び交ったのですが、最後に中下さんが人の最期について語ってくれました。
ほとんど人は、やはりさびしがるそうです。
しかし、なかには泰然と死に向かう人もいるそうです。
人の最後に、その人の人生が凝縮して現れてくるのかもしれません。
節子の最期は、どうだったでしょうか。
少なくとも右往左往はせずに、さびしがることもなく、家族に囲まれて、自然に、眠るように、旅立ちました。
右往左往したのは、家族でした。
死は、本人の問題ではなく、周りの人たちの問題だという思いがします。
孤独死が問題なのは、孤独死そのものではなく、孤独死を迎えてしまう「生き方」です。
死は、本人にとっては、体験もできないことですから。
死は、周りの人たちへの大きなメッセージです。
そのメッセージをどう受け止めるかは、人それぞれでしょうが、とりわけ身近な人の場合は、そのメッセージをうまく受け止められないような気がします。
メッセージをうまく受け止められないと、立ち直ることも難しい。
私の場合は、5年ほどかかりました。
しかし、そのメッセージを解読するには至っていません。
ただ、そのメッセージが、私の生きる力になっているような気がしています。
節子との突然の別れ。
それに右往左往した自分が腹立たしくもあります。
人の死は、周りの人にも、その生き方や価値観を露呈させる働きがありそうです。
私は泰然と死を受け容れて、自然に旅立てるか、ちょっと不安があります。
節子がいたら、そうできる確信はあったのですが。
| 固定リンク
「妻への挽歌12」カテゴリの記事
- ■節子への挽歌2400:怠惰な1日(2014.04.07)
- ■節子への挽歌2399:自分のための日(2014.04.06)
- ■節子への挽歌2398:第4期のはじまり(2014.04.01)
- ■節子への挽歌2397:菜の花は食べられてこそ喜ばれる(2014.04.01)
- ■節子への挽歌2395:時間感覚が回復しだしているのかもしれません(2014.03.31)
コメント
佐藤様 おはようございます
ひとり残されたオヤジは、誰しもが孤独感を味わうことになりますね
そして
その孤独感も人それぞれに違ったものです
また、妻に対する愛の違いにも、孤独感の違いが表れてきます
私と佐藤さんはよく似た感情を伴侶に抱いているようですが、それでも現在の人生模様によって
孤独感は多少違ってくるのかもしれませんね
私と佐藤さんとの大きな違いは、人と成りかもしれません
わたしは他人様からは、身勝手な亭主関白のようにみられていたのですが、実際には気の小さな
駄々っ子のようなものでした。
それは妻だけが知っていたのでしょうね
わたしは死に際の孤独感は、看取ってくれる人がいなくても、孤独とは考えてはおりません
病に伏せ病院のベットの上なのか、また自宅の布団の上で最後を迎えるとすれば
子供達は看取ってくれるかもしれませんが
事故や道端での急死の場合は、独りで最後を迎えることになります
どのような死に際になったとしても、必ず先人となった妻がすぐ傍に迎えに来てくれることを
信じています。
わたしは孤独死という死にざまよりも、それに至る前の孤独感こそ耐えがたいものではと考えております。
投稿: 山陰太郎 | 2013/11/15 09:36
山陰さん
ありがとうございます。
まったく同感です。
孤独死が問題なのではなく、孤独な生き方が問題なのだろうという話が、その集まりでもでました。
投稿: 佐藤修 | 2013/11/18 11:25