■節子への挽歌2252:不幸や苦境もまた、生きる原動力
節子
古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、「人間にとっては、欲することがすべてかなうのは、さほどよいことではない」と言っています。
たしかに、すべてのものが手に入ってしまえば、人生は退屈なものになりかねません。
最近の子どもたちがもしおかしくなっているとしたら、それはあまりに「物質的に満ち足りているから」かもしれません。
有名人の子どもたちが起こす不祥事に触れると、いつもそう思います。
一時期話題になったホリエモンは、「お金で買えないものはない」というようなことを言っていましたが、言い方を変えれば、お金で買えるものでしか構成されていない世界で育ち、生きているということでしょう。
余計なお世話でしょうが、同情を禁じえません。
不満や不足こそ、生きる原動力だと言われます。
もちろんそうではない生き方もあるのでしょうが、生きるとは不満や不足を補う楽しみの連続だとも言えます。
言い方を変えれば、生きるということは、不足や不満と付き合うということです。
その不満や不足が、あまり大きくないほうがいいかもしれませんが、それを決めるのは人それぞれです。
野心を抱き、大業をなす人にとっては、不満や不足は大きければ大きいほどいいかもしれません。
こう考えてくると、不満や不安だけではなく、不幸や苦境もまた、生きる原動力につながっていくことがわかります。
節子を失うことによって、私は生きる気力を失いかけていましたが、それを生きる原動力に反転させることもできたのです。
残念ながら、私自身まだそういう考えをきちんとは受け入れられずにいますが、いつかその意味を知ることができるでしょう。
節子が元気だったら、こんなことは考えもしなかったかもしれません。
少なくとも、知識としてしか、考えなかったでしょう。
しかし最近は違います。
いつも「一人称自動詞」で、自分の生き方につなげて考える習慣が身についてきました。
節子との別れが、私を少しだけ成長させたことの一つです。
節子は今もなお、私にとってはいい先生です。
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