■常識を問い直す3:「ボランティア」という言葉に感ずる違和感
私は、「ボランティア」という言葉が好きでしたが、いまはほとんど使わなくなりました。
私の理解では、「ボランティア」は「自発的な志願者」という意味だったはずです。
それがいつの間にか、「お金の対価なしで活動すること」というような意味になってきています。
つまり、金銭的対価を得るか得ないかを区別する言葉になってきてしまっているのです。
本来、金銭報酬とは無縁だったと思うのですが、いつしかこの言葉も、金銭との結びつきを深めてしまったわけです。
言葉には時代の、あるいは社会の文化が色濃く出てきます。
社会活動をしている人が「ボランティアでやっている」と言えば、無料奉仕ですというアピールに聞こえてしまいます。
つまり、私はお金などもらっていませんよと言うわけです。
そうした発想の根底には、活動は基本的に対価を得るものという考えがあるわけです。
だから、お金をもらわないで活動することに、何か価値を感ずるのでしょうか。
なんとなく、そこに「卑しさ」を感じてしまいます。
それで、私は「ボランティア」という言葉が嫌いなのです。
また「ボランティアでやってくれないか」という呼びかけは、無料奉仕してくれないかと言うことでしょう。
ボランティアが自発的なものであるならば、自発性を要求するという、おかしなことになるわけです。
これもやはり発言者の卑しさを感じます。
唯一私が理解できるのは、あの人はボランティアでやっているらしいよ、という表現です。
それは、あの人は頼まれてもいないのに自発的にやってくれているという賞賛の意味が含まれていますので、気持ちよく聞こえます。
また、ボランティアが来てくれたとか、ボランティア活動という表現には違和感はありません。
私が違和感を持つのは、自分のことをボランティアと言い、あるいは、相手にボランティアを要求したりすることだけです。
むしろそういう意味では、大災害の時は別にして、最近は本来的な意味でのボランティアは日常生活の中では減っているかもしれません。
私は、それが気になっています。
昔は(今も使われているかもしれませんが)「有償ボランティア」という言葉がありました。
それはそれで私には馴染めます。
自発的にやっている活動だが、対価をもらっているという意味ですから。
しかし、「有償ならボランティアしてもいいです」とか「有償でボランティアしてくれないか」などという表現になると、私には理解できなくなってしまいます。
それはボランティアではないだろうと思うわけです。
ボランティア活動している人のなかには、私はボランティアでやっているのだからお金をもらうわけにはいきませんと言う人もいます。
これも私には理解し難いのです。
対価と関係なく自発的にやっているのであれば、それに感謝して誰かがお金のお礼をしてくれたら、受け取ることも礼儀だろうと思うからです。
お金を出す行為にも「ボランティア」はあるはずです。
自分のボランティアは主張しながら、相手のボランティアは拒否するのでは、論理が一貫していません。
そういう人は、結局、金銭対価とボランティア活動をつなげて考えているとしか思えません。
それはボランティアとは言うべきではないでしょう。
お金を受け取ることとお金の受け取りを拒否することは、私には同じに思えます。
ボランティアという言葉が、どうも汚されてきているようで、残念です。
| 固定リンク
「社会時評」カテゴリの記事
- ■「嘘つきは政治家のはじまり」にしてはいけません (2023.01.26)
- ■月収5万円でも豊かに暮らせる社会(2023.01.09)
- ■見たいものだけしか見ない生き方から抜け出さないと善い生き方にはたどり着けない(2022.12.13)
- ■「宗教2世」?(2022.12.09)
- ■岸田首相の裏切りと日本仏教界への期待(2022.12.04)
「NPO時評」カテゴリの記事
- ■キルギスでの植林プロジェクトに関するお願いの途中報告(2022.03.02)
- ■講演会「ファースト侍!平将門さまとは」報告(2021.10.10)
- ■引きこもり家族会の集まりに顔を出してきました(2021.05.23)
- ■『手賀沼でやりたいことプレゼン大会(仮)』の報告(2020.10.05)
- ■東尋坊からのお餅に込められたメッセージ(2019.12.29)
コメント