■近代的な共済事業と協同組合の終焉
一昨日、長らく共済事業にかかわり、共済事業の研究に取り組んでいる相馬健次さんのお話をお聞きしました。
共済事業の歴史に関して、最近本にまとめられたそうで、それを踏まえてのお話でした。
2005年の保険法改正を契機に、日本の共済事業はその存続が危ぶまれる状況になっています。
そのことを友人知人から教えてもらい、私もそれに異を唱えていた共済研究会に参加させてもらいました。
そこで知り合ったのが相馬さんです。
共済研究会(私は今は退会しています)は、緊急避難的にある一定の成果を挙げましたが、基本的には流れに押されてきています。
その理由は、明確です。
自らの思想性や運動性を大事にせずに、経済事業性を軸にしてしまったからです。
日本の共済事業陣営は、ある人に言わせると、新自由主義経済に傾いてしまったのです。
そのあたりのことは、これまで何回か、書いてきました。
共済事業や協同組合(共済とは協同組合保険であるという捉え方がされていました)は、今こそ、その価値を再発見すべきですが、残念ながらそうはなっていません。
自らの手で自らを葬り去ろうとしているように思えてなりません。
相馬さんは、今春発行された「協同組合研究」に「共済事業とは何か」を寄稿しています。
共済に関心のある方は、ぜひ一読されることをお勧めしますが、そこで対象とされているのは、「近代的な共済事業」です。
私自身は、そもそも共済とか協同組合は近代に馴染まないものと考えています。
その視点から考えると、それらは近代に埋め込まれた「進化の種子」と考えられます。
つまり、近代がある限界に行きついた時に、新しい道を開く起爆剤になりうる要素です。
その意味で、企業は協同組合から、保険事業は共済事業から、まなぶべきことが多いだろうと思っていました。
ところで、近代的な共済事業を類型化する時に、「先駆的共済の残存形態」という表現が出てきます。
相馬さんの類型図にも出てきますが、たぶんここに大きなヒントがあります。
というのは、「先駆的共済の残存形態」というのは、たぶん日本の生活文化の中で育ってきた、頼母子講とか結い、舫い、あるいは講だろうと思いますが、それらの組織原理は水平的なプラットフォームです。
それに対して、近代の組織原理は、階層的な分業構造なのです。
しかし、そもそも「助け合い」とか「支え合い」と言う概念は、階層とは無縁です。
つまり、近代共済事業は所詮は事業主あるいは事業経営者のための制度になっていくのです。
それは協同組合も同じことです。
組合員が主役という建前はともかく、組織原理が違いますから、そこからは「助け合い」「支え合い」の「合い」が抜けてしまうわけです。
そもそも共済や協同組合は、近代性を象徴する「所有財産」をベースにした仕組みではなく、生活をベースにした仕組みだったはずです。
それが見事に、近代化の流れの中で、経済事業へと変質していったわけです。
そして、金銭経済と同じように、規模の利益が追求され、成長発想がでてきたわけです。
生活の装置ではなく、経済の装置に変質したわけです。
こうした事例は、何も協同組合や共済に限ったことではありません。
様々な分野でみられることです。
近代は、さまざまな分野に、近代を超える要素を埋め込んでいるのです。
「先駆的な残存形態」という表現には、「先駆」と「残存」という、いささか矛盾した言葉が混在しているところに、大きな意味を感じます。
最近の共済事業や協同組合の動きを見ていると、近代は終わったと感じますが、その一方で、「先駆的な残存形態」から学んだ、新しい共済事業や協同組合が生まれだしているように思います。
いま、必要なのは、そうした「先駆的な残存形態」をもう一度、しっかりと学ぶことではないかと思います。
私の25年前のビジョンは大企業の終焉でしたが、その先に協同組合をイメージしていました。しかし、その協同組合もまた大企業と同質化してしまい、同じ道を歩み出しているような気がします。
協同組合や共済事業から新しい動きが出てこないものか。
アメリカでは、ケアリング・エコノミクスやシェア・エコノミクスが唱えられだしました。
ネグリとハートは、「もうひとつの近代」を構想しています。
まだ遅くないような気がします。
| 固定リンク
「経済時評」カテゴリの記事
- ■政治とお金の問題の立て方(2024.02.02)
- ■デヴィッド・ハーヴェイの『反資本主義』をお薦めします(2024.01.18)
- ■一条真也さんの「資本主義の次に来る世界」紹介(2023.12.14)
- ■資本主義社会の次の社会(2023.10.10)
- ■「資本主義の次に来る世界」(2023.07.24)
コメント