■節子への挽歌2275:加齢の停止
節子
久しぶりに高須夫妻と食事をしました。
高須さんたちは、私たちが最初に仲人をさせてもらった夫婦です。
最近は高須さんも海外での仕事になったので、なかなか会う機会がありません。
高須さんの上のお嬢さんはもう中学3年生です。
まわりの人たちはどんどん歳をとっています。
もちろん私自身もそうなのですが、伴侶がいないせいか、なかなか自分を相対化できません。
伴侶である節子が歳とっていくのをこの目で見ていれば、自分の歳も実感できますが、それがないせいか、どうも自分が歳をとっているのが実感できないのです。
毎朝、顔を洗う時に鏡に映る自分は見ていますが、不思議なもので鏡に映る自分からは歳を感じません。
写真になるとわかるのですが、写真はこの頃、あまり撮りませんし、撮っても見ません。
ですから私自身の老いは、なかなか実感できないでいます。
「老人」であるという認識はあるのですが、実感はありません。
実に困ったものです。
もし今、節子がいたら、どんな感じになっているでしょうか。
想像も出来ません。
私の世界の中での節子もまた、歳をとるのをやめています。
6年前、私たちは2人とも歳をとるのをやめてしまったわけです。
歳をとらずに生きていくことは、浦島太郎のように、ある時に突如、一挙に歳をとることになるのでしょう。
それもまた困ったものです。
やはり伴侶と一緒に、自然に歳をとりたかったものです。
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