■節子への挽歌2272:彼岸は残された人の心身の中にある
節子
朝起きて、リビングに行くと、そこに節子の気配を感じます。
チビ太の気配を感ずることもあります。
そこには、節子とチビ太がいて、朝になって、私が起きてくるのを待っているのかもしれません。
気配を感ずると声をかける。
声をかけると気配を感ずる。
相手が彼岸にいようと、その関係性には変わりはないようです。
彼岸は、もしかしたら此岸に残された人の心身の中にあるのかもしれません。
その気になれば、人はいつでも、彼岸と交流できるのです。
そう思うと、少し心はなごみます。
一人になると、ふと、節子を思い出します。
思い出すと、そこに節子の気配を感じます。
過剰に思い出すと辛くなるので、適度に思い出すようにしていますが、思い出すと気配が感じられるのは、ある意味での支え合いになります。
そうして、人は先に逝った人たちに支えられているのかもしれません。
彼岸は、自分の中にある。
この頃、そんな気が強くしています。
今日の東京の空はとてもきれいです。
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コメント
佐藤様 こんばんは
どうしてもコメントをしたくなりました。
それは佐藤さんの次の言葉からです。 久しく心休まることはありませんでしたが
なぜか佐藤さんと向かい合い語り合っているような、そんな気がしました。
佐藤さんの次の言葉を讀んだときです。
彼岸は、自分の中にある。
この頃、そんな気が強くしています。
私がこの三年弱の年月を経て、やっと辿り着いた終着駅でした。
本を読み漁り、ネットを毎日検索し、繋がっては離れていった似た境遇のメル友や知人たち
そのような折、「節子への挽歌」に漂着し、一人ぽっちから少し解放されたような気がして
コメントを入れさせて頂いた時
返ってきた佐藤さんの返信に、安堵したのが正直な気持ちでした。
反骨な私が科学や宗教に関して親身になって素直に取り組み、自分なりに出した結論が
あの世もこの世も自らの直ぐ傍、同じ場所にあるということでした。
もちろん妻は電子顕微鏡でも見えない小さな一粒になり、身体、脳、目、耳、口や手足は失い
話しかけることも見ることも、泣くことも笑うことも出来なくなってしまってはいますが
何かの信号で繋がってくれていると思っています。
今も何か行動や思考をすると常に妻が浮かんできます。
これはまさに、佐藤さんもお感じになる奥様への、「愛」の信号ではないのでしょうか
その信号は奥様に、必ず伝わっていると私は信じております。
投稿: 山陰太郎 | 2013/11/21 19:56