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2013/11/24

■節子への挽歌2274:引接結縁の楽

極楽往生に関するガイダンスともいうべき「往生要集」を書いた恵心僧都源信は、生きた人間の生のなかに、地獄や餓鬼を見ていたといわれています。
おそらく、そこに極楽世界をも見ていたのでしょう。

浄土宗につながっていく「往生要集」には、極楽浄土での生活の様子も描かれています。
そのひとつに、「引接結縁の楽」というのがあるそうです。
極楽では、縁のある人々を自在に連れて来られるのだそうです。
現世ではなかなか思うようにならなくても、極楽浄土では、だれでも思いのままになるというわけです。
いささか理屈っぽい言い方をすれば、極楽(彼岸)では時空間がたたみこまれており、すべてが量子力学の世界のように自由自在に存在しているがゆえに、それが可能になるのかもしれません。
問題は、此岸にいる人までも連れて行けるのかどうかです。

昔から、「神に愛でされたものは早世する」といわれますが、これもまた神が連れ出す結果かもしれません。
愛する人に先立たれた人が、後を追うように亡くなることがありますが、それもまたこうしたことの一つかもしれません。
私の場合、いまだ節子には呼び出されていないようですが、時々、彼岸にいるような気がすることがありますので、もしかしたら気づかないうちに彼岸との往来をしているのかもしれません。

とまあ、今日はおかしなことを書き出してしまいましたが、ふと目についた「往生要集」の解説書をぱらぱらと読んでいたのです。
そこに仏の観察法が書かれていました。
実際には仏像のイコノグラフィーのような解説です。
そこに「上品上生」と言う文字が目に入りました。
極楽往生を願う人たちには9種類(上品上生から下品下生まで)存在するとされ、仏たちもまたそのそれぞれに応ずる形で、印を結んでいるようです。
私にはこれがなかなか理解できずに、節子と会った頃、仏像の前でよくこの話をしたことを思い出しました。

最近は仏に会いに行く機会も減りました。
仏を語ることは、もっと減りました。

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妻への挽歌12」カテゴリの記事

コメント

佐藤様

いつもながら納得のいくお話を読ませていただいています。

若い頃は和げなく語っていた言葉、「赤い糸」という縁で繋がったふたり
今、妻を亡くし縁と言う不思議な強い絆を知ることになりました。

妻を亡くした当時、仏教の教えにどれほど助けられたことでしょうか
縁(えん)という文字の深い意味も何となくですが、理解も出来るようになりました。
また、仏壇の前で手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えることの意味も、昔とは違ってきたようにも感じております。

妻が元気なころ
なぜこの人は大声で叱ることもなく何時も笑顔なんだろうかと、不思議に思ったことも多くありました。
傍にいるだけで癒される人でした。
神様にまで好かれたのでしょうか

妻の死後1年ほどは、仏教などの教えを糧に頑張ってこれました。
西国巡礼に出ては仏様や観音様に癒され、有り難く感謝しております。
しかし今や私の観音様は妻になってしまいました。 

巡礼も休止になってしまい中途半端なことになってはおりますが、なぜか心が穏やかに過ごせています。
そして、仏教の教えを考えることもなくなっています。

ただひとつ、彼岸と此岸の追求だけは引き継いでおります。
物理学での次元の世界はほんとうに存在するのだろうか?なんて素人が真剣に考えたりしております。

五次元が彼岸であれば三次元は現世、そして四次元はその中間にあり、魂(素粒子)になれば、彼岸との往来が出来るかもしれない
と言うことであれば、私が死んだ時妻に逢えるかもしれない・・そんな夢物語を考えながら妻との縁を繋いでおります。


投稿: 山陰太郎 | 2013/11/25 01:43

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