■節子への挽歌2254:笑顔が戻るのもさみしい
節子
今日も空一面が灰色で、心身ともに寒々とした朝になりました。
今朝のNHKテレビ「おはよう日本」で、東日本大震災の時に、最後まで防災無線で住民に避難を呼びかけて津波の犠牲になった、南三陸町の遠藤未希さんのお母さんの日記が紹介されていました。
日記を通して、悲しみを乗り越えるため一歩一歩前へ進もうとする母親の思いが伝わってきました。
その中に、こんな文章が出てきます。
「お母さんは少しずつ笑って過ごせるようになっています。それも何かさみしい。少しずつあなたの顔がぼやけてみえます。」
大震災から1年半経った頃の日記です。
笑えることは本当に幸せなことです。
しかし、その幸せなはずの笑えることに「さみしさ」を感ずることの辛さは、なかなかわかってはもらえないことかもしれません。
しかし、遠藤さんの気持ちは、愛する人を失った人の多くが体験しているのではないかと思います。
笑いの中にさみしさがある。
でも、そのさみしさは自分だけのもの。
他の人には気づかれたくない。
いや、自分はほんとうに笑っているのだろうか、
とても複雑な気持ちなのです。
にもかかわらず、笑わないと生きてはいけません。
笑うことで、さみしさを忘れないといけない。
意識しようが意識しまいが、生きるということは、そういうことなのでしょう。
さみしいのに笑える自分がいることが、時に不思議でもあります。
そして、同時に、そうやって笑っている自分を冷やかな目で見ている、もう1人の自分がいて、さらに、その2人を見ている自分もいる。
人とは本当に不思議な存在です。
たくさんの「いのち」の集合体なのかもしれません。
今日は青空は期待できません。
なにか気の萎えてしまう1日になりそうです。
せっかく元気が出てきたのに、困ったものです。
元気になりすぎて、また走り出そうとしている私を、思いとどまらせようとしているのかもしれません。
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コメント
はじめまして
今日は妻の68回目の誕生日を祝いました。
娘夫婦と息子の四人でイチゴケーキと紅茶の簡素なお祝いです。
ただ、妻はこの世にはおりません。二年半前に病に持って行かれてしまいました。
喜んでくれたのかは分かりませんが妻の誕生日会が終わり、娘夫婦が帰ってしまうと
寂しさと言うのか侘びしさがつのり、妻の名を検索窓に入力しクリックすると
「節子への挽歌」がヒットしました。
貴プロフィールと少しの記事を読ませて頂きましたが、何かに引き寄せられるように
安堵感が湧いてきました。
私は財産も学才も知識もない底辺の人間ですが、尽くすことが当然のような妻のお陰さんで
多くの厳しい荒波を乗り切ることが出来ました。
まだまだ妻の優しい呪縛からは、解き放たれることが出来ない日々をなんとか過ごして
おりますが、何時気持ちが萎れてしまうかもしれません・・・
また覗かせて頂きます。 よろしくお願い致します。
投稿: 山陰太郎 | 2013/11/04 01:16
山陰太郎さん
ありがとうございます。
私の妻と名前も年齢も同じ奥様なのですね。
不思議な縁を感じます。
私は妻を見送ってから6年以上経ちますが、いまなお毎日萎えそうな気持ちの中でなんとか元気にしています。
サイトを見せてもらいました。
エクセルで、こんな素晴らしい作品が出来るのに驚きました。
妻がいたら、たぶん学びたくなったのではないかなと思ったりしました。
私も、なんとかうまくやってこれたのは、ひとえに妻のおかげです。
妻がいなくなってから、そのことがよくわかるようになりました。
ありがとうございました。
元気をいただきました。
投稿: 佐藤修 | 2013/11/04 09:08