■節子への挽歌12307:相互身勝手関係
節子
凍えるような寒さです。
彼岸にも季節はあるのでしょうか。
季節は生活に節目をつけてくれます。
それはそれでいいのですが、寒ければ寒いと不平をいい、暑ければ暑いと文句を言う。
人間はまことにもって、身勝手です。
しかし、その身勝手さが人生を豊かにしてきているのかもしれません。
豊かさとは少し違いますが、夫婦の良さはお互いに身勝手になれることです。
すべての夫婦がそうではないでしょうが、お互いに身勝手にならないと長年連れ添い続けることは苦痛になりかねません。
身勝手に成り損なうとむしろお互いに拘束しあう関係にもなりかねません。
そういう意味では、私たちは、かなり早い時期に身勝手文化を身に付けたように思います。
それは実に簡単なことで、自分の身勝手さと相手の身勝手さは、セットのものだという、簡単なことに気づけばいいだけの話です。
それさえわかれば、身勝手に振舞われることもまた、むしろ快適にさえ感じられるのです。
つまり、身勝手さは相互関係においてこそ、価値を持ち出すように思います。
言い換えれば、気持ちよく安心して身勝手になれるのは、誰に対してでも、ではなく、特定の人にだけなのです。
言い換えれば、そういう人こそ、愛する人なのかもしれません。
そうした人がいることの幸せは、いなくなってから気づくことです。
もちろん、伴侶や親子でなくとも、身勝手をぶつけてくる人はいます。
身勝手は、相互関係であればこそ受け容れられますが、そうではない友人や知人の身勝手さは、伴侶のそれと違って、素直には受容できません。
どこかで拒否感や不快感が生まれます。
だからと言って、そうした相手に自らの身勝手さをぶつける気にはなれません。
夫婦の場合は、お互いに身勝手であることが、その関係を深めますが、そうでない相手の場合は、身勝手さは関係を壊しかねません。
しかし、すべて物事には裏表があります。
身勝手関係を作りあげた生活に慣れてしまうと、その相手がいなくなってしまうと、途端におかしくなってしまうのです。
自らの身勝手を引き受けてくれる人がいなくなってしまうからです。
あるいは、快適な身勝手さをぶつけてくる人もいなくなるからです。
それは、実にさびしいことです。
身勝手さを発揮できないと、人生は少し疲れますね。
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コメント
佐藤様 こんばんは
ほんとうに寒くなりましたね
こちらは家の前から雪を被った山々が見えます。 アルプスのように綺麗な連山です。
すぐ手の届くような感じがしますが、距離は15Km以上離れています。
妻がいる頃、このような感覚で見ことはありませんでしたが、最近はどこも景色が美しく感じられます。
そして景色を見ている数秒後には、妻のことが心の中に現れ、やはり無念の思いが襲ってきてしまうのは、仕方のないことでしょうね
話は変わりますが、今日のTVニュースでハワイのホームレスの現状やドキュメント番組で中国の砂漠に暮らす民を見ましたが
あらためて私は幸せ者だと再認識させられました。
特に中国の砂漠に暮らす家族のなかで、60歳ぐらいのお母さんが、小さくつぶやいた言葉に、私自身の弱さを発見しました。
砂漠のお母さんがレポーターに言った一言は、「昨日から一滴の水も飲んでいません」
また、年老いた旦那さんが、「わしらは明日のことより 今日生きることが精いっぱい・・」
その言葉を聞いた途端、自分の人生観の未熟さに戸惑ってしまいました。
よき時代に生まれ、よき伴侶に恵まれ生きてきた六十数年だったと、思い知らされました。
そして、その良き時代は今も続いていることを、感謝しなくてはならないのですね
身の回りでは、お正月や新年の話が飛び交っていますが、私には無縁のこととなってしまいました。しかし
大晦日も新年の三が日も、私には与えられた仕事があります。
寂しがり屋のわたしのために、おそらく妻が与えてくれたのでしょう
このように人間は生かされていくのですね
佐藤様への新年のご挨拶は、仕事場からになりそうです。
投稿: 山陰太郎 | 2013/12/27 01:29