■節子への挽歌2312:7回目の年越しです
節子
節子を見送ってから7年目も今日で終わります。
夏には7回忌も済ませたのに、気持ちはまだまだ整理できません。
アルベール・カミユ。
年末になって、なぜかカミユを思い出して、昨日から大掃除の合間に、彼の遺稿をまとめた「反抗の論理」をぱらぱらと読むでもなく、頁を繰っていたら、こんな文章が目に付きました。
そのものの価値を知ったいま、それは失われている。
まさに、この7年間の私の思いです。
だが、7年間、失われたものへの悲しみだけではなく、失うことによって、得たものへの気づきも生まれてきています。
年末なので、ホームページに書いた、今年の年始の言葉を読み直しました。
そこに、宮沢賢治の言葉が引用されていました。
ああ いとしくおもうものが失ったものの価値を超えて、もはや失うことのない価値に気づいたといってもいいかもしれません。
そのままどこへ行ってしまったかわからないことが
なんといういいことだろう
おそらく宮沢賢治も、そうだったのでしょう。
銀河鉄道の夜を読むとそれが伝わってきます。
私がカミユの作品に出会ったのは1960年。
節子に出会ったのは1964年。
節子と出会い、一緒に暮らしだした頃は、私はカミユにあこがれていました。
節子には大きな戸惑いがあったはずです。
しかし、節子は、それにとても素直に馴染み、逆に私を変えてしまったのです。
そんな気がします。
カミユは「反抗の人」でした。
年が明けたら、50年ぶりに、「ペスト」を読んでみようかと思います。
節子と付き合いだした頃の気分に戻れるかもしれません。
そこから出直せば、もう少し気持ちが整理できるかもしれません。
明日は、とても穏やかな年明けになりそうです。
私も、穏やかな気持ちで新年を迎えられそうな気がします。
来年は、少し前に進められるかもしれません。
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